「自己の人生に影響する他者」としての性ホルモン(2023.8.6)

#1 前回に引き続いて「私」というものは自分では掴めないものだという話しの続きです。
女性の場合、彼女の人生の要所はオキシトシンや視床からのLH-RH(黄体形成ホルモン放出ホルモン)に刺戟されて脳下垂体後葉から放出されるLH(黄体形成ホルモン)、これと協力して働くFSH(卵胞ホルモン)」とによって卵巣が刺激され黄体ホルモン(プロゲステロン)の発生によって排卵が始まる。これと同時に子宮内膜の肥厚が起こり、卵が精子と合体すれば卵の分割が開始されると同時に肥厚した子宮内膜が受精卵をやさしく包む(着床する)ようになる。受精卵が誕生しなければ肥厚した内膜や無駄になった数百の卵全てが下血として排泄される。前々回に説明したオキシトシン(女性の性欲を支配する)と並んで、ここに記したホルモン群が女性の人生を左右します。1人の女性がこれらホルモン群を自由に操れることはあり得ません。つまりこれら生物学的要因も1人の女性にとっては「他者」に属します。下の図(QLIFEホームページより引用)に見るように女性ホルモンは60歳前後で急落しますので、それが女性の生き方の変化として現れます。

加齢と性ホルモンの変化

#2 今回は男性がいかにテストステロンというホルモンから影響を受けているかについて話します。このホルモンは11~12歳の思春期前期になって突然とも言える形で急速に精巣から血中へ放出され、男児を男性へと変身させます。この時期以降、男児は夢精し、早朝勃起し、その意味もわからないまま性的存在として世界に投げ込まれます。突然襲ってくる性欲の大波について、それが何なのかを親や兄弟に訊くこともできず、声がわりなどもあって、大きな不安の中に居るというのが11~14歳の男児の実態でしょう。こうした不安は仲間内の猥談の中で多少は解消しますが、同時に異性(女性)に関するとんでもない誤解を抱えたまま成人女性との出会いの場に進みます。そういうわけだから、中学進学前後から不登校・引きこもりに入り、貴重な猥談友達にも出会わなかった少年たちはテストステロンによる自分の心身の変化を異様なものと受けてしまうことになります。これが「適切な自己評価」や「感情の不安定」を招いて「対人関係からの撤退→引きこもり」という事態に陥りがちになるのではないでしょうか。

#3  思春期男児の洗手強迫
このことと関連して述べておきたいのは、こうした思春期・青年期の男児を襲いがちなミゾフォビア(mysophobia、不潔恐怖)のことです。最初の射精が夢精ないし朝起ちした男根の衣類等による摩擦であったとしても、少年たちの多くはこれを恥じたり、誤解したりして親たちに報告することもないのがむしろ普通です。1人で悩みつつも何らかのきっかけで性自慰を覚え、それに伴って性的欲望やその充足を隠すことが彼らの人生の一部に組み込まれてしまいます。精液は匂いますし、手淫で充足すれば手洗いが尋常で無い程度にまで激しくなります。彼らの多くは自己臭、手掌の過剰発汗、他者からの視線過敏と自らの視線が他人を傷つけることへの不安(この2つの視線に関する恐怖症を混同してはならない、後者の不安は妄想的なものであるから)などにさいなまれ、その一部は他者(実は「自己」)の批判を苦にして社会にでることをあきらめてしまいます。

#4  LOH症候群
10代半ばから急激に増加したテストステロンは、男の子を男性に変えます。骨が太くなり、筋肉が厚みを増し、声変わりして低音になります。テストステロンの血中濃度は30代を通じて高原状態を続け40代後半に入ってやや血中濃度が低下するようになり、それでも50代から70代に渡って緩やかに低下しつつゼロにはなりません。この点が50代後半からエストロゲンが急激にゼロに近づく女性の場合と違うのですが、言い換えれば女性は受胎関連ホルモンの影響が無くなった自由な時間を持てて本来の自己に近づけるようになるとも言えるのではないでしょうか。しかし女性のなかにはこうした加齢による変化をきらって所謂「更年期障害」に悩む人々もいます。その場合にはエストロジェンの筋肉注射などが必要になりますが、肝臓障害を起こしやすいので気をつけてください。

男性の中にも50代半ば以降の気力の衰え筋肉量の低下、とくに勃起力の低下を悩みととらえる人がいます。難治性の向老期うつ病の人々の一部にテストステロン値低下が原因と思われる例があり、そうした男性にはLOH症候群(late 0nses hypogonadism=遅発性腺刺戟ホルモン低下症)という病名が用意してあります。中高年になって発症した難治性(抗うつ薬が効かない)の男性うつ病者に接した場合には、このことも念頭に置く必要があります。テストステロンは内服薬やサプリでは効果が見られないので、泌尿器科のところで筋肉注射してもらうことになるでしょう。もっともこういう状況を自然な流れと見なして、過度な不安に陥らないようにすれば、余計な治療はしないですみます。

#5  テストステロンとパラフィリア(性行動倒錯)
テストステロンの影響下にある男性たちの一部に、窃視(性的覗き行為)や窃蝕(痴漢行為)など、世の人々にとって不快で非倫理的かつ非合理的な性行為を我慢できずに表出してしまう人々がいます。その人たちの殆どは男性ですので、パラフィリア(性的倒錯)はテストステロンという一物質に影響されて発現するものと思われます。

テストステロンの効果はアドレナリンやドーパミンで高まり、セロトニンで鎮静します。ですから、窃視症、露出症、窃蝕症(いわゆる痴漢) の人々にまずお勧めするのは少量のSSRI(フルボクサミン=デプロメールなど)の服用です。弁護士や大学病院の勤務医から筆者のもとに送られてくるのは、殆どこの3種類の衝動行為を止められない男性たちです。少数ではありますが自分から発意して私の処に治療に来る人も居ないではありませんが、この場合には、フェティシズムやペドフェリア(小児性愛)と言った重要な問題にも触れなければならないので、別の機会に説明させてください。残念ながら多くの場合、抗うつ剤だけで問題が解決することはまずありません。

私が重視しているのは児童期、前思春期あたりに存在したはずの何らかの心的外傷体験(トラウマ)を発見することです。彼らの殆どは子ども時代の被害体験と加害者としての自分との関連に無頓着です。かといって、治療者としての私が彼らの反社会的行動の原因なるものを押しつけるわけにもいかない。そこで私はミーティングと称する教育プログラムの中で「一般論」として「被害者から加害者への道」と呼ばれる経過があることを繰り返し伝えるのです。幼児期から思春期にかけての時期に生じた性的外傷体験とか、生育家族の中に絶えず漂う緊張感や暴力の気配などに晒されて育った男の子の場合、自分が父親になったときに暴力を多用する事になりやすい。特に性的侵入を受けた男児では成年に達してからパラフィリアを含めた性倒錯の傾向を持ちやすいという事実があります。自分から性倒錯の治療を望んで私の処にやって来るような男性であればミーティングで語られていた一般論が自分にも適用されることに気づきますから、私との個別セッションの中で自分の被害体験を語るようになります。自分の被害体験と加害者としての自己とのつながりが見えてくることによって、彼らの行動は着実な変化を見せ始めます。

#6 女性と性的外傷体験
上に紹介した教育グループには女性も参加しています。私の治療を受けに来る女性たちの場合、性的加害者は居ません。居るのはうつ病などの気分障害者や性的被害によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)、ないしC-PTSD(複雑性PTSD)を病んでいる人々です。

PTSDとC-PTSDについては、ここでは詳しく述べません。いずれ別の機会に触れることにします。ここで取り上げたいのは女児における近親姦被害の履歴と売春ないしセックス・ワーキングの関係です。残念というか悲惨なことですが、この2つの間には関連があります。英米圏の論文には売春歴のある女性たちに性虐待被害の体験者が統制群より有意に高いことを示す複数の論文がありますし、私たちの自験例においても児童期の近親姦被害の体験者における売春歴はその体験を免れた女性たちに較べて統計学的に有意に高いという結果になっています。

売春に限りません。女児における児童期性的虐待の被害はその後の度重なる自傷行為や薬物依存、自殺未遂の既往も高い割合で発生します。最も理解してもらいたい異性の親から受けた性的侵入が、いかに手ひどい痕跡を残すものか慄然とします。しかし希望はあります。治療方法がないわけではないので。

今回はこれまでにします。当日は他にもいろいろ話したのですが、ここに載せるほどのことではないので省略させて頂きます。

2023/08/15 斎藤学