普通という異常(2023.7.16)

新生児・乳児にとっての時間感覚

新生児にとっては(A)母の在、(B)母の不在が瞬間ごとの「心的状態」になります。(A)では赤ん坊の口が母(ないし母代理)の乳頭をすっていてお腹は温もりで満たされ、鼻は母親の匂いを嗅ぎ、身は母親の音で溢れているでしょう。目の方はしっかり見えるようになるまで数日かかりますが、要するに新生児の5感は悦びに満たされ、新生児はこれを「快」と受け取ります。

一方、(B)では母の不在が空腹、寄る辺の無さ、寂しさ、絶望感を招き、新生児は「不快」を感じます。この際、新生児には「ない」の感覚が未発達なので、「オッパイの無い状態」は「悪いオッパイがある」そしてそれが乳児を攻撃すると感覚されます。新生児や乳児には、他の動物と同様、「ない」の感覚が無いのだと気づいて、乳児にとっての「無いオッパイ」は「悪いオッパイ」だと気づき、「在るオッパイ」である「善いオッパイ」と対比してみせたのはウィーン出身、イギリスで活躍した精神分析家メラニー・クラインです。

「在るオッパイ」を1、「無いオッパイ」を0とすると、赤ちゃんにとっての無限の瞬間というものは限りなく続く0の闇の中に1がポツポツと輝くといったものではないでしょうか。圧倒的に0が多い辛い時間を乳児は過ごすのだと思います。しかしこの0と1の対比が、赤ちゃんに「時間」という感覚の萌芽をもたらすのではないかと私は考えます。

成人が持つような時計的(時刻的)時間感覚を備えるようになるには7歳までかかるそうです。それ以下の年齢層の子どもにあるのは過ぎ去る瞬間の連鎖ですが、リズムとしての時間感覚は既に乳児の頃にその基板があると思います。

自己は他者(複数)から構成されている

16歳の少年の成績が急に落ちた。心配した担任教師が訊いたところ両親が離婚して勉強どころではなかったというので、スクールカウンセラーに相談させた。勿論善意からでしょうがカウンセラーは「勉強はお母さんのためにするものじゃない、あなたのためにするのよ」と言ったら。その子は全く勉強しなくなった、という笑い話があります。ここで「欲望とは母(という他者)の欲望」というジャック・ラカンの有名なセリフを想い出す人も居るかも知れない。自己(self)とか主体(subject)とか「私」(me)と呼ばれているものには、実は実態がありません。ですから「真の自分を確立する」とか「自分を探す」といった言葉も無意味です。

人は体内から発する化学物質(ホルモン)に支配されている

「人は何をするか選ぶことはできる。しかし何を欲するか選ぶことはできない」といったのはショーペンハウアーだそうです。私はこの哲学者について無知ですので、他人の書いた本で読んだだけ。その本はクリストファー・ライアン&カシルダ・ジェダ『性の進化論』(山本則雄・訳)作品社、2014年)で、その420頁に出てきます。どういう文脈で出て来るかというと、男の行動はテストステロンに支配され、女性のような柔軟性に欠けているという記述の中です。前回のRAカフェでは女性の行動がオキシトシンの分泌で説明されることに触れましたが、ここではテストステロンという化学物質の男性に及ぼす影響に触れます。

人は過去の外傷体験(トラウマ)に支配されて行動することがある

パラフィリア( 性的倒錯)とペドフィリア(小児性愛)に対して精神療法は無力ですが、テストステロンの血中濃度を減弱・消失させる化学的去勢(プロペラなどの黄体ホルモンが使われるようだが筆者は無経験)ないし外科的睾丸除去は確実に効きます。つまり男性諸氏が自分たちに固有のものと見なしている社会的・非社会的・反社会的な諸種の性衝動はオキシトシンという化学構造物(他者)に支配されているのです。

ある時期(可塑性が維持されている時期)を越えてから刷り込まれた快楽・苦痛は体験として刻み込まれ「固着」(fixation, original repression)します。以下は前掲書420頁からの引用です。「もしも発達途上の時期に、歪んだ破壊的な性的被害を受けてしまうと、少年が大人になるときに他人に対して同じパターンを今度は自分が再演したいという、ほとんど抗いがたい欲望を抱えていくことになる」。

自己と視線

もうひとつ、自己を構成する他者について紹介しましょう。「視線」です。近年、女子陸上競技におけるアスリートのユニフェーム問題が起こりました。今、YouTubeでの画像が問題視されているようですが、私の知る限りかなり以前から世界のスポーツ界で話題になっていたと思います。最初は肌の露出の多い女子選手を猥褻目線で見る男性たちへの批判であったと思います。しかしテストステロンの奴隷である男たちの視線に規制をかけることなど出来ません。今では元来地味な、従って資金が集まりにくい競技であった陸上競技に多くの注目があたるようになっているのは、男どもの「下劣な目」の効果で、選手たちにとっても、競技協会にとっても歓迎すべきことなのではないでしょうか。

これを見られる側の1人の女子アスリートの立場からするとどんなことが起こっているのでしょう? と筆者は当日のカフェ参加者の皆さんに訊きました。「自意識過剰になりますよね」といったお答えを頂きました。確かに個人として特定され、名指されると自己が露出されたような恥ずかしさを感じるでしょう。しかし選手として紹介されたことで「アスリート」という特殊集団に紛れ込むことが出来るのかも知れない。後者は一種の遮蔽ですが、遮蔽されつつも人ないし群衆の視線に指されて「自己」を認識できることにはオトク感があるのかも知れない。その一方、自分の体躯をモノ扱いして性対象にしようとするエロオヤジへの反感が募る女性がいることは確かでしょうが、その場合その女性は自分自身も自分の体躯をモノ扱いしていることに注目しておきましょう。その日、カフェの私たちはリレーの競技会を見ながら議論していたのですが、たまたま選んだ画面が「雨中の血走」といった感じの凄まじいものだったので(私には)エロ感ゼロでした。

鏡像と自己

視線としてはもうひとつ「鏡像」の問題があります。これを自己と間違える人はいない。というのは鏡に映る自己像を見た途端に私たちは「この鏡良く映る」とか「曇っている」あるいは「歪んでいる」などと「鏡としての性能」を感じてしまうことからも言えることです。勿論、左右逆転の件もありますが、我々にとっては鏡像も写真も動画に写し取られた自己像も「自分に関する像」に過ぎないので、ここで論じている自己をこれらの中に見いだそうとはしません。

そこを間違えて鏡像の中に自己の価値そのものを見いだそうとすると、一日中鏡を見て過ごす「鏡像点検アディクション」になります。この状態の人は美容形成外科に高額の支払いを繰り返すことになり、人生が外科手術代金を巡って転回することになりかねません。

ラカン派の鏡像論

この部分は実際のカフェでは話していません。話すとややこしくて参加者を困らせることになると思ったからです。しかし「鏡像」という話しをすると精神医学や精神療法を学ぶ人々には連想されてくるものがあるはずで、そのことに一応触れておくことにします。フランスの精神分析家ジャック・ラカンの人間観の基底のようなところに、「鏡像段階説」とでもいうべきものがあるのです。極めて簡単に紹介しておきます。

生後半年から1年程度の時期に乳児が自らの鏡像に気づき、その際に悦びを表現する

というところから話しが始まります。ところが、この際の乳幼児というのは「乳幼児そのものの主体(S)」ではなく、他者性を帯びた「他者a」になります。「a」は仏語のautre〈他者〉の略でカタカナ語にするとプチッタ(小文字のa)です。「S→a」という変性がおきてしまうというわけです。それというのも、鏡の中に自己映像を発見する程度(生後6ヶ月~1年半)にまで育った子どもの場合、親たちを初めとする「人間環境の言語や諸規範」(これらを大文字のAと呼ぶ)が本来の主体(S)に「ノン(否定、ダメ)」を連発することによって主体(S)が変性していると考えるからです。

この「大文字のA(カタカナ語で記すとグランザ)」は乳幼児に否定、ノンnonダメ出しばかりするので、名前を意味するノムnomに引っかけて「父の名 ノム・ドゥ・ペール」と言い換えられることもあります。この場合の「父」とは文法も含めたこの世の法秩序、社会規範、自然循環のようなことを指します。

更にその「鏡像」は「a’」(小文字のaダッシュ)として、「a」と併置されます。つまり「自己=主体=S」は、本来なら「他者=A」に対峙するわけですが、実際の人間関係では「S」が変性した「a」と「a’」の間の裏取引が連鎖する人生になります。ここでいう「a’」とは、規範に縛られ他者性を帯びてしまった自己(主体)が鏡像として見いだす自己の似姿、例えばポップソングや映画の中に輝く自分の影、あるいは自分が避けたいクラスメートのブザマな姿など、憧れや羨望ないし侮蔑の対象となる自己に関連付けられた他者の姿と言ったら何とか意味が通じるでしょうか。

要するに、人間というものは物心(ものごころ)が付くつく頃には既に親たちの言語や規範の虜(とりこ)になっているのだから、主体、自己、自分などというものを把握できるはずがない、せいぜい他者によって構成された自己と、その立場を奪おうとする鏡像との間での嫉妬、羨望、憧憬の世界で苦労するものですよ、というのが私の理解です。

最近読んだ、というかオーディオブックで聞いたアニー・エルノーの『嫉妬』(堀茂樹、菊池よしみ訳、ハヤカワ文庫)という自伝風小説に、ここで挙げた「a」と「a’」の関係にあたることが描かれていることに気づいたのでつけ加えておきます。その小説のヒロインにあたる女性教師はかなり年下の男を、自分より年上の47歳の女にうばわれるのですが、男はその女性が大学の歴史学准教授だということしか言いません。ヒロインは嫉妬に苛まれ、その女性の名を割り出そうとしたり、自分がパネリストを務めた学会で挙手質問した冴えない女性をそれと決めつけたりして惑います。この辺のスリリングな描写が、さすがノーベル文学賞(2022年)と思われるところなのですが、この小説の中で一人称で語るヒロインを「a」、ヒロインによってその実像を追求される女性を「a’」としてお読みになると、こうした現象の連鎖こそ私たちの人生ということが実感出来ると思います。

兼本浩祐著『普通という異常、健常発達という病』という本について

この本は、最近よく耳にする発達障害の一型であるADHD(注意欠陥・多動性障害)という「異常」をテーマにしています。この「異常」は、児童(成人にも適応されます)の一部があまりにも衝動的で社会ルールに反することでも、その瞬間「したいこと」をしてしまうというところにあります。この場合、その子の抑制系、つまり前頭前野、帯状回前部。眼窩脳などの新皮質の機能の障害が考えられるわけですが、今のところ無害で有効な治療法があるようには思えません。現今、なされている治療は抑制系の機能を賦活するための覚醒系の薬物(メチルフェニデート塩酸塩など)を「異常」と思われている人々に処方するだけです。

兼本氏の書いたこの本は、ADHDを標準とした場合、私たちが「正常」ないし「標準」とした行動がどのように記述できるかということから始まります。私たちはいつも他者からの批判を怖れ、何をするにも今日現在だとどこに平均点があるかを素早く計算し、その平均に沿うような行動をして毎日を送っている。そういう「他者への忖度」ないし「他者からの承認」で生きているのが、いわゆる「正常人」で、それ自体、ある種の「異常」ではないかというのが兼本氏の主張です。

これを論じるに当たって、兼本氏は「正常にこだわり過ぎる異常人」を「昭和人」、「衝動任せに、好きに生きる人」を「令和人」としているのですが、これはまぁ、この人なりの冗談でしょう。ただ社会がモダニズム的大量生産に入った頃の「トヨタ式改善」に代表されるような会社向き人格が現在では否定的に評価されるようになり、ポップアートやローラースケートに代表されるようなノリの軽い、更に言えばVR(ヴァーチャル・リアリティ)のような電子情報的仮想未来の可能性に過剰な期待を抱いているのは慥かです。表紙裏にある兼本氏の写真を見るとかなりの高齢者(というか、それほどお若くない)に見えるので、この本の中の「昭和人」は著者自身への自嘲なのかも知れません。

この本を取り上げたのは、私たちの自己が「他者からの承認」という「忖度」で成り立っていることを丁寧に説明してくれているからです。ときどき挿入される「症例」の際に感じる本書の著者の精神科医(ごくふつうに総合病院での精神科保険医をやっているようです)としての姿勢に共感させられます。精神分析を始め、ポリヴェーガルだのEMDRだのと言った○○療法万歳の本に固有のうさん臭さは皆無です。ただし、一読者としての感想を言えば後半の哲学的議論は難し過ぎてついていけませんでした。でもなお、わかる部分だけでも読めば得られる所の多い本だと思います。

以上、当日(日曜日)にしゃべったこと(他に、ヒトの女性のオッパイがなぜ膨らんでいるかについて説明しましたが、省略します)を書き終えた現在は金曜日の昼休み中です。今日も気温30度越えのようですが、これから小一時間散歩してみようと思っています。今や歩行だけが私のスポーツになってしまいました。熱中症で倒れないように注意します。

2023/07/21 12:19 家族機能研究所にて 斎藤学