蒸発する親たち
「父」を求める人々
注意を促しておきたいのは、高齢者の「蒸発」がトピックになったのは、日本人がまだ自分たちの社会(という家)の壊れに気づいていないふりをしているからである。日本人は自分たちの生死が「日本国という親」に認知されずにすむなどということが生じるはずがないと思っている。政府機関の統計は正確であり、税金は一部の不心得者を除けば役人や支給対象者の家族に横領されることはないと考えている。父祖がそのような秩序と安定を作り上げてきたと信じることそのものが儒教的思考であることには気づかないまま、このように無限な依存に疑問を抱かずにきたから、高齢者の失踪問題に驚かされたのである。
考えてみれば当たり前のことで、「私たちのプライバシーには入りこまないで」という要求が「個人情報保護法」として国会を通過する社会では、家族内で起こるどんな虐待も自殺幇助や殺人も世間の批判にさらされることがない。「父祖の道義」や「父なる神」への畏れがない家族は、その中の弱者(子供、老人)にとっては地獄そのものだ。
集団順応性の高い日本人は犯罪率の高い社会を作らない。青年男子への軍役がないので武器の操作に長けた者も少ない。それでも近年、若い男性による奇妙な暴力犯罪が続発することには注目せざるを得ない。奇妙というのは、それらの事件が世間に向けてのメッセージのように見えるからである。彼らは「父さん! どこにいるの?」「早く来て僕を捕まえてよ!」と叫んでいるように感じる。1997年に14歳の少年が数ヶ月の間に近所の女子中学生二人を殺傷し、11歳の男子学童を絞め殺して首を切り落とし、それを自分の通う中学校の校門に置くという事件を起こした。その上で「愚かな警察官どもよ、私を捕まえてみたまえ」という挑戦状を地元の警察署へ送った。少年の父親は中卒の実直な工員だったが彼はその父を父と認めていなかった。母もまた学歴のない父親を蔑視し、彼に圧力をかけ続けていた。母親は息子が強くて有能な男になることを求めていた。
2004年に小学校に30代の男が包丁を持って乱入して、小学校1年、2年の学童10人を殺傷した。この男は結婚詐欺や強姦を繰り返し、逮捕されそうになると統合失調などの精神病者を装って入院すること繰り返していたが、事件の前日、父親に金を無心したとき「金がない。死にたい」と言って「死ね」と言われた。しかし自殺に失敗したので死刑にしてもらおうと思ったと言った。この犯罪者と兄は父親からの激しい暴力の中で育った。母親もまた彼らの父親からの暴力に脅えていた。父親に「死ね」と言われた日の前年、兄は首を吊って自殺していた。彼もネクタイで首つりを試みたが、結び目がほどけて床に落ちた。法廷での彼は被害児の父母に「子供をかわいがって良い学校に入れたって俺みたいなオヤジの手にかかれば終わりなんだよ」といい「ザマーミロ」と叫んだ。一審で死刑が決まると、あらゆる手段を使って刑の執行を急がせ、結審から1年余という短期で死刑執行を受けた。
2009年、日曜日の東京・秋葉原で交通止めの「歩行者天国」に人が群がっていたところ、自動車通行止めの柵を破って、トラックが突入し、歩行者数人を跳ねて殺した。運転していた25歳の男はナイフを持って車から降り、その場にいた男女や警官を殺傷して現行犯逮捕された。男は工業短大を出てから派遣労働者として数カ所で働き、数年前に自殺未遂歴があった。事件当時は愛知県の自動車部品工場で派遣として働いていたが、近々解雇されるものと思いこみ絶望していた。彼は世間に怒りを抱いていたようだが、それを表現する手段を持てず、お気に入りのインターネット掲示板の顔も性別も分からない「仲間」たちに愚痴を垂れ流していた。そうした書き込みを不快に思った参加者がサイトから立ち去るようになると、「見捨てられた」との憤怒を感じ、自分の怒りの強さを示すために「現実の場」で事件を起こすと威嚇した。「仲間」がそのことにも無関心でいると、事件の工程表をサイトに載せ、「馬鹿な真似は止せ」と言ってくれる仲間の書き込みを待ったが誰からもそのようなメールが来なかった。レンタルしたトラックで秋葉原に乗り付けてからも、「本当にやるぞ、あと5分でやるぞ」などと掲示板に打ち込み続けたが、そうした彼に関心を示す仲間はついに現れず、彼は犯罪の実行に及んだ。この男性の父母は彼が成人してから離婚していた。母親は夫を嫌っていて、長男であった犯人に一流の工業大学に進むことを期待し異常なほどの教育圧力をかけていた。男は法廷で、この母親を批難し、大学進学に失敗して短大を出たのも母親へのあてつけだったと執拗に繰り返した。しかし己の犯罪によって命を奪われた人々への関心は殆ど見られなかった。
これらは「奇妙な事件」と筆者が感じる多くの事件からたまたま撰んだ3例に過ぎないが、犯罪者たちはいずれも、真の「父」を求めていたような気がする。「父」とは世を拗ね、世から「透明人間」のように見放されている自分に正面から向き合ってくれる存在のことである。その「父」が説くはずの道義に触れることができたら、彼らはその「父」に孝を近い、他者に「礼」をもって接し、先人の築いてくれた安全と秩序の社会に「忠」を注いだのではなかろうか。
日本の社会は今、かつての家制度に代わる新たな規範を求めてさまよっている。その新規範はおそらく、家族の利益に代わってコミュニティーの利益を考えるようなルールであろう。そこでもやはり市民個々の資産とプライバシーが尊重されるであろうが、新規範は乳幼児や高齢認知症者に代表されるような弱者が迫害されることから救うための監視装置として機能しなければならない。能力ある個人が伸び伸びと才能を展開できるとともに、不運な敗者に復活の機会を与える機能も備えていなければならない。
齊藤學