母に毒を盛る娘

メキシコ映画『母という名の女』からブログをはじめてしまったので、暫くこのテーマにこだわろう。前回、「母・娘もの」という括りの中で『秋のソナタ』と『誰も知らない』を挙げ、『アカシアの道』(近藤ようこ)はコミックとして紹介したが、その後、メキシコ大使館での試写会(映画終了後、私と広報担当者との対談付き)の後の歓談で、『アカシアの道』には映画版もあることを教えて頂いた。教えて下さった人は映画制作畑の人で、その映画化にも係わっていたかも知れないのだが、お名前を失念してしまった。

先刻アマゾンを覗いたら、VHS版(2004)だけが売りに出ていて8000円だった。松岡鋭司・監督で、夏川結衣、渡邊美佐子出演。とりあえず買ったら、「これを買った人は、こういう作品も買っています」という例の告知のところに、『愛を乞う人』(DVD版)も出ていて、つい買ってしまった。これで1万2000円の出費。「まずいな、アマゾンに金使い過ぎ」と思う。

既述のように母・娘葛藤は定番テーマのひとつで、ナタリー・ポートマンが主演した『ブラック・スワン』(ダレン・アロノフスギー監督)という大物もある。考えてみれば、ひと頃私の頭を悩ませていた『ハッピーエンド』(ミヒャエル・ハネケ監督)という作品もこれにあたる。ハネケ監督だから当然イサベル・ユペールが出て来るのだが、ストーリー展開の主要部分からははずれた役で、本当の主役は13歳(映画の役として)の少女エヴ。設定ではユペールの姪(弟である外科医の前妻の娘)。この子はじっくりと時間をかけて「父に離婚されて愚痴ばかり垂れ流す煩い女」である母親を薬剤中毒で「静かに」させた。そしてこれをスマホ動画で細密に記録した。この少女が孤児になって父親の外科医に引き取られ、そこで3年前に認知症の妻を絞殺した祖父(ジャン=ルイ・トラティニャン)と出会うというところが映画としては焦点(絵画なら中心)になる。同じ老人(ジャン=ルイ・トランティニャン)が認知症になった妻を殺すという設定の『愛、アムール』というハネケの前作(2017年のカンヌのパルム・ドール受賞)を嫌でも想い出させられる「あざとい設定」だ。

少女が母に毒物を与えてじっくり殺す(殺そうとする)という設定は、実は実例が、しかもこの日本国で起こっていて、オーストリア人のハネケはこの極東の事件に大きく揺すぶられ、その報道記事を保存して何度も読んでは考え、そしてこの映画『ハッピーエンド』に辿り着いたという。もしかしたら、前作『愛、アムール』の方こそ、副産物だったりするのかも。

日本で実際に起こった事件というのは次のようなこと。2005年10月31日、静岡県伊豆の国市の県立高校1年制(16歳)の女子が毒物「タリウム」を薬局から購入して母親に与え殺害しようとした容疑で警察に逮捕された。薬局は学校で実験に使うと言ったらチェック無しでタリウムを売ってくれたという。ハムスターと猫で毒性確認。6月27日から母親を対象にした「実験」開始し、徐々に投与量を増やして、母親が弱っていく様子を岩本良平の名でネットにアップしていたブログに掲載した。

10月2日、母親が倒れ救急搬送される。帰郷した兄が母親を見て事態を推察。兄は妹の猫殺しを知っていた。母親の主治医にこの推察を述べ、医師は直ちに警察に通告、母親の入院と妹の拘束が行われた。この少女は以前から自閉症スペクトラム(アスペルガー障害)の診断が付されていて、この時もそうした障害の対策を含めてという条件付きで医療少年院送致になったというが、現在の様子はわからない。被害者である母の生死も不明。そして強調されたのは一部の若い人々に見られる対話のなさ(ディスコミュニケーション)やアスペルガー障害のことだった気がする。

映画『ハッピーエンド』で頭を使ったのは、この映画における「伝わらなさ」の質を明確にしてみたいと思ったからだ。とりあえずそのストーリーを正規のパンフレットから引用しておく。

スマートフォンの撮影画面に映し出されるバスルームの女性、そしてハムスター。画面上に映し出されるチャットによると、女性は撮影者の愚痴ってばかりの母で、ハムスター同様、彼女にも薬を盛って“静かにさせた”と。

事実、薬物中毒に陥った母の入院により、ひとりぼっちになった13歳の少女エヴ(ファンティーヌ・アドゥアン)は、母と離婚した父トマ(マチュー・カソヴィッツ)のもとに身を寄せる。カレーに住むブルジョワジーのロラン家は、瀟洒な邸宅に3世帯が暮らす。建築業を営んでいた家長のジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)はすでに引退している。家業を継ぐのは、娘アンヌ(イザベル・ユペール)。その息子ピエール(フランツ・ロゴフス)も専務の肩書きを与えられ、母のもとで働いている。アンヌの弟トマには、エヴの母親と別れた後に再婚した妻アナイス(ローラ・ファーリンデン)と、幼い息子ポールがいる。また、幼い娘のいるモロッコ人のラシッドと妻ジャミラが住み込みの使用人として働いている。

アンヌの会社が管轄する工事現場で地滑りにより作業員が負傷する事故が起きる。事後処理に当たるピエールは、謝罪に行った先で作業員の息子に殴られ、職場を放棄。逃げ回る息子に対し、アンヌは「人望も家名もある未来の社長。すべてはやる気次第だ」と叱咤激励するが、埒が明かない。

一方、トマには妻に隠れてセクシャルなメールを交わす愛人がいるようだ。

食事のたびに一家はテーブルを囲むが、家族は父ジョルジュの苦悩を知る由もない。自殺が未遂に終わり、車椅子生活を強いられると、見知らずの移民や床屋に手助けを懇願するが、敢えなく断られる。

そんな折、ジョルジュの85歳の誕生会が開かれる。音楽好きのジョルジュもいつになく演奏も楽しむが、このチェロ奏者こそトマの愛人だった。彼女の演奏が終わると、アンヌはトマの1歳を迎える息子ポールとエヴを新しい家族の一員だと招待客に紹介する。ビュッフェ・タイムになると、母と弁護士の恋人ローレンス(トビー・ジョーンズ)とのむつまじい様子を目にしたピエールが、母への腹いせに悪趣味な冗談を披露して場を乱す。

そんなロラン一家の面々を冷静に観察するエヴは、父トマに愛人がいることに気付いていた。再び父に捨てられ、施設に入れられることを恐れるエヴは自ら薬を飲んで自殺を謀り、病院に付き添うトマは、ことの顛末を知って動揺する。

トマに頼まれたジョルジュは回復したエヴを書斎に呼ぶ。自殺の理由を問うても答えない孫娘に対し、ジョルジュは美しかった妻(エヴにとっては祖母)の写真を見せ、話し出す。衝撃の告白にうながされ、エヴも臨海学校で母からもらった精神安定剤を使い、嫌いな友達を殺そうとした、そして今では後悔していることを打ち明ける。

海辺のレストランではアンヌとローレンスの婚約披露宴が盛大に催される。アンヌのスピーチが終わった頃、ピエールがアフリカ移民たちを連れて現れ、場を混乱させる。そんな取り込んだ会場から、ジョルジュとエヴはこっそり抜け出してゆくが……。

以上で引用終わり。

この映画には会社の謝罪文書から広報、パーティ司会者の挨拶など多数の公的言語やネット上で愛人同士が交わす極私的言語まで様々な言活動が展開されているのだが、コミュニケーションに必要な言葉がいろいろなところで足りない。母を「静かにさせ」た後、母と離婚した父に引き取られたエヴにとってみれば、自分が父からも見はなされて「施設」に入れられることこそ心配なのだが、その恐怖を話せない。その代わりに臨海学校で事件(友人にクスリを盛る)を起こし、同じクスリで自殺未遂をしてみせる。そして「ナゼそんなことやった?」と訊く父に「ナニを?」と疑問形でしか答えられない。「ナニをじゃないよ!」と父はいらだつ。そしてナニも伝わらない。

3年前に愛妻を絞め殺した83歳の老人の車椅子を13歳の孫娘が押す。彼らは2人ともこの世に身を置く余地がないことを知っている人たちだ。レストランの隣の海に続くスロープを孫に押された車椅子が海に向かって滑り、やがて祖父の靴が海につくと老人は海底を目指して車輪を回す。女の子は坂を少し上り、それからやはりスマホを取り出した。海に向かう祖父を記録に収めようと。

こうして予定どおりの死への道を歩もうとする2人とは違う人生を歩いている2人が、慌ただしく画面に飛び込んでくる。「パパ!」と叫びながら海に入る老人を追う娘アンヌと息子トマ、アンヌはスマホで祖父を映すエヴに気を取られながら車椅子の父の背を追っている。

以上のようなわけで、何処と言って笑い出すところなんかないように見える作品なのだが、「パパ!」と叫びながら坂道を下ってゆくアンヌ(イサベラ・ユペール)が坂の途中でスマホをかざすエヴに気づいて、不審げに振り返りながらまた「パパ!」と叫びつつ坂を下るあたりで私は哄笑した。そして笑いながらナゼかと考えた。それまでのアンヌが万事心得たように振る舞いながら、ブルジョワの一族らしく家族のほつれを隠しおおせてきたことにストレスを感じていたからかも知れない。

以下はこの映画のパンフレットに載っていたイサベル・ユペールのコメント。

これはある家族の物語です。家族のメンバーたちの機能はそれぞれしっかりと定義されています。まずジャン=ルイ・トランティニャン演じる家長がいます。そして彼の子供を、マチュー・カソヴィッツと私が演じています。若い世代では、私の息子と幼い孫娘です。この家族の誰もにそれぞれ役割があります。全てうまくいっているフリをしている者、それが私が演じる女性です。何ひとつ信じられなくなっている者、それがジャン=ルイ・トランティニャン演じる家長です。そしてミヒャエル・ハネケはこの家族のエゴイズムを描き出していますが、そのことで苦しんでいる者もいます。この作品の暴力性にはとてつもないものがありますが、この暴力性は決して真正面から提示されることはありません。暴力性はすべて完全に封じ込められているのですが、映画全編を通して実感することが出来ます。そして抑圧されているからこそなお、その暴力性はより激しいものになるのです。周りの圧力に押しつぶされ、常に破壊寸前の状態です。爆発(explosion)ではなく、爆縮(implosion)です。

すごいな、イサベル・ユペール。チラ見しただけの私の印象批評などとても太刀打ち出来ない。こんな風に確りとらえながら作品にのぞんでいるものなのですね。