なぜ、この映画? 「カッコーの巣の上で」

以前、クリニックのデイナイトケアで行っていた「斎藤講演」の中で、私が観た映画について解説するという時間がありました。その時に書いた文章を時々ご紹介していきます。

 

映画「カッコーの巣の上で」

秩序とトリックスター

洗面台で窓を破ったチーフが堂々と病棟を抜け出す爽快なラスト・シーンを除けば、「カッコーの巣の上で」One Flew Over the Cuckoo’s Nest は不気味で不愉快な映画になります。特に怖いのは人が血まみれで死に統治者が首を絞められるという大事件があった後でも人々(患者たち)は平常どおりの日常を繰り返すことです。それでいて、マクマーフィ(ジャック・ニコルソン)のような秩序破壊者ないしトリックスターの尻馬に乗って、騒ぐことも大好き。これって社会と私たちの関係のカリカチュア(漫画)ではありませんか。面白いけれど不愉快なのは、この映画が私たち自身を批判の対象にしているからです。

精神病院は学校と並んで社会のメタファー(隠喩)にされやすい場所です。社会は秩序維持のための暴力装置を備えていて、それは警察だったり、マスコミによる世論誘導だったりします。精神病院では白服の男性看護士たちが身体的拘束という役割を担い、ラチェット婦長の司会する病棟内ミーティングが世論誘導機関にあたります。こうした体制の中に反乱者を投げ込むとどうなるか、というのがこの映画の主題です。この手のストーリーは比較的陳腐なものですが、この映画が凡俗の社会風刺劇から抜け出た高い評価を得ている理由は、マクマーフィという反社会性パースナリティ(精神的には正常だが、社会的には危険な人)の視点から離れないストーリー展開のためです。何があろうと反乱は制圧され、もとの平穏と退屈と秩序に戻る、しかしある種の変化が伝わって社会の風向きを徐々に変えて行くこともあると、この映画は訴えています。

マクマーフィの誤算

マクマーフィの目を通すと病棟社会を支える数々のしきたりは滑稽なものなのですが、彼にも重大な勘違いがあります。彼はもともと犯罪者ですから、刑務所しか知りません。そこでの農場労働を嫌って精神障害者と名乗り出て68日間の観察入院をするだけと思っていたのですが、それは甘かった。殆どの場合、退院は医師の恣意によるものなので収容期間は自在に伸ばせます。実際、映画の中でも患者の多くは自主的(ヴォランタリィ)入院でした。それを知ってマクマーフィは驚愕します。病院は刑務所のように支配者側(刑務所職員)と被支配者側(収容者)という単純な構造にはなっていない。自らの意志で入院してくる者が多いし、その目的もさまざまだから患者側が一団となるなんてあり得ないのです。

そこのところがマクマーフィにはわからない。わずかに理解できたのは、このままだと懲罰的な電気ショックを繰り返し受けながらいつまでも収容されることになりそうだということ、それと子ども返りを強いられている患者たちにも一致して大喜びできる瞬間というものがあって、それは「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式の乱痴気騒ぎということです。彼は、誘惑に弱い看護士が夜勤をしている晩を狙って懇意の売春婦キャンディとその仲間に酒類を持ち込ませて乱痴気騒ぎを起こし、その隙を狙って脱走という計画をたてます。この無理な計画はビリー・ビビット(母親を異様に怖がる吃音の青年)の自殺というオマケ付きで失敗し、このときに地が出てしまったマクマーフィはラチェッド婦長の首を絞めて危うく殺しかけます。

ここまでの危険性を精神医療の中で出してしまうと、とんだ目にあいます。反社会性パースナリティを無理矢理矯正しようということになると、①頭蓋を開けて前頭葉の新皮質の神経繊維連絡を遮断するというロベクトミー(脳葉切除術)か、②物理的に睾丸を切除して男性ホルモンの供給を遮断する去勢術(physical castration)か、はたまた③黄体ホルモンなどの化学薬品を使って男性ホルモンの供給を断つ化学的去勢(chemical castration)ということになります。が、②と③の効果は間接的です。このドラマの当時は、まだロベクトミーが使われていたのが、マクマーフィにとっては悲劇でした。因みに、日本で②をやることはありません。③も、これをすると公言していたのは先日亡くなった小田晋先生(元筑波大学教授)くらいでした。

題名の由来

カッコーという鳥は、自らの生む卵を他の鳥の巣に託し、孵化した雛は巣本来の雛を蹴散らして成長します。これを託卵といいますが、そういうわけで巣はつくりません。つまり「カッコーの巣」とはそのまま「狂者のあつまり」「精神病院」の隠喩です。

原題のflew over は fly over は「逃げる」こと。だから原題を直訳すると「誰かがカッコーの巣を逃げた」となって、そこには「上で」という意味がありません。邦訳は誤訳でしょう。Wikipediaにはマザー・グースの詩の引用という丁寧な解説があって助かります。

Three geese in a flock,

One flew east,

And one flew west,

And one flew over the cuckoo’s nest.

マザー・グースの謎かけ歌を解くゆとりはありませんので、このまま挙げておきます。

時代

この映画が公開されアカデミー賞を得た1975年はベトナム戦争でアメリカの負けが確認されたパリでの終戦協定の2年後です。60年代から70年代にかけて、アメリカでは戦争に従事させられる若い世代を中心に反戦運動の華が咲き、秩序や体制から逃れたり、反抗したりする者たちへの共感が広がっていました。

俳優たち 

主演の二人、ジャック・ニコルソン(マクマーフィ)とルイーズ・フレッチャー(ラチェッド婦長)はふたりともアカデミー主演男優賞と主演女優賞を獲得しました。ビリー・ビビット役のブラッド・ドゥーリフは助演男優賞を得て、その後、たくさんの映画やテレビに出ています。私個人としては「私のタバコをくれ」と執拗に吠えて、電気ショックをかけられるチェズウィック役のシドニー・ラシッドが印象的でした。

 

*「カッコーの巣の上で」〔1975/アメリカ〕

(監督)ミロス・フォアマン (主演)ジャック・ニコルソン