斎藤学との対談(M.N)
対談する人
M.N
1971年生まれ。52歳女性。夫と二人暮らし。子どもなし。
スポーツ一家に生まれる。3歳下に弟。「馬ならばサラブレッドだったのに」と知らないおじさんに言われたりした。会社員4年目の時に抑うつ状態になり、その後潰瘍性大腸炎を発症する。その頃斎藤先生の著書「家族という名の孤独」を本屋でみつけ、自分はACだと自覚する。本を読んだ10日後にはアパートを借りて実家を出て、本に書かれていたJACA(ジェイカ:日本アダルトチルドレン協会)に通い始める。その後もうつと対人恐怖がひどかったため1997年さいとうクリニックに繋がる。2003年弟が自殺。2005年統合失調症発症。2013年結婚。
斎藤学(以下、S):あなたが持ってきてくれている今日のテーマは何?
M.N(以下、N):斎藤先生がお仕事を辞められた後に私達はどうしたらいいのかなということです。
S:それぞれにいろんなことをしていくんじゃないの。セラピーの仕事をする人っていうのは何人かもう私がいなくてもやると思うんでね、そっちの方はそれで良いのですが…。心配なのは、集まりですよね。集まって人々の話を聞くということが大事だと私は思っていて、自分の中にこもっちゃうとそれでお終いになっちゃうから。
N:そうですね、安心して話せる場所があればいいなと私も思っています。
S:いつも僕らは何か欠陥とか欠如とか欲求不満とかそういうものを抱えているのだけど、それを自分だけのものとするとなかなかそこから動かなくなってしまうんですよ。1つのことから。例えば、お母さんが十分な遺産を残してくれなかったとか、みんな一つのことをぐるぐるめぐる話をしてるでしょ。他の人の話を聞いているうちに、他の人の問題点には気づく。それをきっかけに自分の想いの中で欠けていたことにも気づくんです。
N:それは分かります。自分のことは気づかないけれども、斎藤先生と他の方の対話でだと俯瞰して見られる時があって。
S:そうそう。それが大事。そこから私今こうなってるかもしれないって自分で気づくときに気づけばいい。いつ気づかなきゃいけないっていうことはないけれど。
N:潰瘍性大腸炎が悪化したりする時に斎藤先生のところに来てお話しさせてもらうのですけど、1ヶ月前にも斎藤先生と話したらびっくりするほど良くなったんです。
斎藤先生から、私はチューニングが必要だって言われていて、自分でもそうだと思ってるんですけれども、チューニングを自分でできるようになりたいなと思っているのですが…。
S:自分では無理なんじゃないかな。
N:無理ですか…。
S:心理療法的チューニングというのは、本来、セラピストとクライアントの2人の中に起こるものなので。人は誰でも自分によかれと思うでしょ。それ自体がチューニングを妨げちゃう。なぜなら、人はいつも最善で最高の状態をキープしようと自動的に、つまり無意識に思ってしまうものだから。潰瘍性大腸炎というあなたの身体に起こっていることも、実はあなたの何かを守っているはず。あなたにとって良いものなのだ。そのように思いながらも下血に苦しんでいるあなたの気持ちに私の心を合わせようとするのがチューニング、それにしても下血は悪いことだよね。あなたの身体にはね…。
N:そうですね。痛くはないけど下血とかはびっくりするほど多いんで。
S:悪いことなんだけれどもあなたにとっては大事な意味がある。どう考えたらいいのか一般の人にはわかんないんじゃないかな。とりあえず何も考えないで人の話を聞いているうちに、あるバランスが生まれるんだよね。
N:はい。
S:バランスが生まれて、今まであなたを作っていた潰瘍性大腸炎を必要とするようなバランスから少しずれるんですよ、軸が。
野球のピッチャーは毎回同じ玉を投げないでしょ。少しずつ回転を変えてバッターが打ちたくなるような投げ方をしている。太陽が地球を放り出したのも同じようなもので、地球は微妙に変な回転をしていてね、2万6000年に1回元の軌道に戻るとか言われてるけれども。斜めでシュート回転しながら回ってるわけだよ。
僕らは2万6000年なんて言われるとぼーっとしちゃっていろんな事に気がつかなくなっちゃうのだけど、実際のところは数年おきあるいは数ヶ月おきに同じような状態を身体的にも心理的にも起こしてるんだよね。それでぐるっと回ってるわけだ。
それで回り方が変なふうになっちゃうと、外的な要素は何も変わらなくても平衡点がずれるって言ったらいいのかな。僕らにはみんな「バランス点」っていうのがある。
N:そのバランス点っていうのが私の場合は今潰瘍性大腸症を発症するようなバランスでいると思うんですけれども、自分でずらしていこうというのはちょっと難しいんですね?
S:ちょっと無理なんじゃない。僕らは人との関係の中で初めて「私」っていうのが認識できるわけでしょ。そのバランスの移行っていうか移動も他人との関係の中でしか起こらないと思うのです。
N:そうなんですね。私のこと知ってもらってる、私のことを私以上に知ってくれている人は斎藤先生以外にそんなにいないので…。
S:あのね、自分のことを一番知ってるのはやっぱり自分で。
N:そうですか。
S:しかし、今は自分がこう考えてるって言うのを書けるとそれはもう小説家だよね。その点が難しいんだと思うんですよ。
先日、川上未映子という作家の『黄色い家』(中央公論新社)っていう本を読んで面白かった。あの小説の中の家は、ある処まではビルを借りてた頃の「さいとうクリニック・デイナイトケアセンター」を思い出させるね。この小説のヒロインは東村山の高校にも満足に通えない、ファミレスのアルバイトの17才なんだけれど、あるきっかけで未成年なのに「スナック・レモン」の実質的経営者になるんだよ。そこから世田谷区にある「黄色い家」を手に入れて、スナックを手伝う4人の女たちで一生懸命その家を守ろうとするようになる。そういう4人のシスターフッドというか、フェミニズム的連帯を書いている部分がデイナイトケアセンターの頃の「さいとうクリニック」に似てると思った。だからこの『黄色い家』の著者みたいに小説の「私」に仮託して、自分の体験や感覚を書いても、読者(他人)を共感させられる。でも、小説は完結させられるけど、人生は続いていて、ある瞬間には先が見えないわけでしょ。不安ですよね。
N:はい。
S:私がいつも見てる人たちってそういう瞬間にある人たちなんだ。でも所謂ヒトだから、翼が生えて空を飛ぶわけでもないし、モグラみたいに地にもぐるわけでもない。
N:そう思います、私も。昔のことを考えると自分のダメなところばっかりあげてはそればっかりグルグル考えていて抜け出せなかった。と今思っています。
S:大きく考えるとその時の不安ってそんな大したことじゃなかったのかもしれないじゃない。でもその時はそれが大きく迫っててね、これが解決しなきゃ未来がないとか、或いは自分はダメになったんじゃないかとか。そこら辺が私の言う軸の歪みなんだよ。
私は82年ってみんなよりは少し長く生きているから、いろんな時代を経験した。で、今は「そんなに慌てないで」とか「今までも何とか切り抜けてきたよね」みたいなことを言ってあげるのが仕事かな。
ただ私1人だと説得力がないっていうか。そこいくと皆さん、他の人が悩んでるのは見当違いの悩みなんだけど、現在進行形の本物の悩みであることには違いないでしょ。それを聞いてもらう機会があるのに人に話を聞いてもらわないなんていう選択がよくできるな、というぐらいで。(笑)
N:(笑)
S:僕は、本質はみんなが集まって話をすることで、それが一番大事だと思っている。個人のインタビューよりも、みんなが集まる場所、他の人が何言っているかを聞くのが大切だと思うんだよね。
皆さんについて言えば、どっちかっていうと本来うまくやっているのに、この人の長所だなあといういい部分に気づいてらっしゃらないと思う。この人は損ばかりしてるけど優しいなとか、他の人を傷つけないようにして生きてるんだなとか思うけど、その人からすれば、そういう自分の長所に価値を置いてない。見えないというか、ダメなところばかり気になってらっしゃる。
それに他の人のことを羨んでる。いい学校出てるとか、何か楽器が弾けるとか、お金に不自由していなさそうだとかね。
N:私も昔は比較ばっかりして羨んでばかりいたし、当時はアディクションを持っている人の方が羨ましいような気がしたり、自分は症状の上でも劣っているようなそんなこと思っていました。
S:一時期あなたはピアノの時間なんかでもすみっこで寝てた。
N:はい。
S:シート(絨毯)にくるまっていて。私はそれを見たことないんだけれども、あの時はウツだったの? やっぱり。
N:ウツでしたね。とりあえず這いずるようにクリニックまでたどり着く感じで。夜も寝れてなかったし。睡眠もクリニックでとっていたので。家にいたら死んでしまうというような勢いで、這いずるようにして電車に乗ってやってきていました。
S:それってすごいよね。
N:生活はクリニックでしていた感じでしたね。5階のベッドで寝させてもらったり、そこが空いていない時は休憩室で寝てたりして。何でかピアノだけは弾けていたので、自分の順番になるまでは寝ていて、順番になると弾いていたという感じでした。ピアノが支えになっていたなと自分で思っています。自分の支えになるものがあったのは本当にありがたかったですね。クリニックを隅々まで使わせてもらっていたなと私は思っていて、うまく利用させてもらってたなと言うか。
S:そういう人がいてくださったことは私にとっても誇りだよ。
N:生まれ直したって言うか、成長させてもらってきたなっていうのは実感しています。
S:残念ながらあの場所を維持できなくなってしまった。ああいうものは公的なお金でまたできるといいね。でもさ、かつてそれがあったこと自体すごいことだと思うよ。だって再現しようというモデルになるもの。できるのは必ず違うものなんだけど、そこには進化があると思うんだ。
N:すごい野望っていうか、そういうものを作りたいという気持ちになってきちゃったんですけど。現実的かどうかわからないですけど。
S:目標っていうことだよね。それがあっていることだと思うね。やって見せることで、それを利用していいなと思った人たちの中にいつかそれをもう1回作らせるっていう。野望と言えば野望かもしれないし、そっくり同じものって言ったら大変だけどね。
N:さいとうクリニックにかかる前は、斎藤先生の本を見つけて読んでJACA(日本AC協会、世田谷区八幡山に1990年代末まで存続した)に1年ぐらい通っていて自分はそんなに症状の重い人だと思ってなかったから、しばらくクリニックには繋がってなかったんですけれども、やっぱり自分でも抱えきれなくなってクリニックに繋がったっていう。JACAとかも良かった、本当に家があって。そういうのに憧れはありますね。
S:JACAハウスはわたしのポケットマネーでやっていたんだけどね。利用者ができる範囲惠運営すれば再建できるかもね。
N:今の私はITのパートですけどフルタイムで働いていて犬も飼い始めたし、妙に安定路線に乗ってるんですけど、この決められた路線を外れたいと言うか、息苦しさみたいなのもちょっとあって、(居場所をつくるとか)考えるとワクワクしますね。
S:女の人たちがそういう風に考えなくなるのは、1つは子どもを産むからだろうね。子どもって自分にとっての野望の塊みたいなもので。でも、子どもを野望の対象にしちゃまずいよね。
N:私は子ども産まなかったし…。
S:あなたが本当にお母さんと同じになろうとすると、お母さんは全日本で優勝したっていうからあなたは10連覇ぐらいしないといけないし、最後は星になるくらいまで行くしかないよね。
N:あー。
S:あなたはその路線を思いっきり叩き壊したんだよね。ある時期。自分では意識してないかもしれないけど。その後、空虚になった。
N:ちょっとわからないです。クリニックに繋がってからですか? そういうことじゃなくて?
S:テニスに見切りをつけて、理系の学校へ行くって決めた頃だよ。
N:うーん。
S:ただ、まだ負い目になっていて、じゃあどうすればいいんだって訳がわからなくなっちゃった。
N:うーん。
S:それで悩んでた。お母さんがまだ大きな存在としてあったんだよね。
N:それはそうだと思いますね。
S:お母さん達の負託っていうのかな、弟さんのことも心配だったろうけど、弟さんもそれでちょっと大きいものを上から乗せられて困っていたのじゃないの。諦めて欲しいみたいに思っていたと思う。それで自分らしく生きたかった。
N:そうですね、一応長男という立場だったから。推測ですけど私よりも重たかったのかもしれないです。
S:「俺ダメだし」と早くわかってもらいたかったんじゃないかな。
N:問題行動ばかり起こす子どもでしたけどそういう意味もあったと思います。
S:まあとにかく、彼の正しかったことが何かって言えば、楽しいこと、瞬間瞬間楽しいことがいいことだ。っていうのは正しい。
N:サーフィンですか?
S:ドキドキしたりハラハラしたり。やったぜっていう。アドレナリンも出るけれどもドーパミンが爆発とかね。炸裂とか。そういうのをドラッグでやんないで、波乗りかなんかでやっていれば。
N:そうですね。
S:オリンピックで認定の競技になるにはちょっと早かったし、まして今みたいに金メダル狙えるみたいな立場になれなかったじゃない。競技としてちゃんと成立してなかったから。
N:そうですね。
S:だから彼にはそういうのがあればね、体も大きかったしもしかしたらスポーツでね、あとは教えりゃいいんだから。コーチ側に回ってね。
N:そうですね、時代的にちょっと早かったですね。
S:ああいうのって、その時代に合うか合わないかっていうことだから。この前のオリンピックなんかスケボーでなんかやたら金メダルが出てたじゃない。あれはちょうど間に合ったんだね。
人間の成功とか不成功とかってその程度のことなんですよ。
N:確かに…。
(2023.6.8)