8月6日から考えていること その9

日本が勝つ、ないし引き分ける機会はあった。

1.捕虜になりかけたマッカーサー

ポツダム宣言受諾後の日本で現人神(あらひとがみ)ヒロヒトに代わって「神」を演じたダグラス・マッカーサー元帥はフィリピンのコレヒドール(マニラ湾にある島)の地下壕で降伏文書を書く寸前にまで追い込まれた。

真珠湾攻撃(1941年12月8日)の帰途、日本海軍航空隊のゼロ戦84機を含む106機がクラーク空軍基地などに駐機していた米軍機108機を襲い、その殆どを地上で破砕した(ウィキペディア「ダグラス・マッカーサー」)。真珠湾攻撃から9時間後のことだったが、マッカーサーは白人優越の人種的偏見にとらわれ日本海軍の能力を誤認した。同じことはフランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)大統領にも見られたことで、同種の誤認によって真珠湾に米海軍の主力艦船を集結させ、心配する軍人たちの助言に耳を傾けなかった。
アメリカ極東司令官のマッカーサー大将は、この緒戦の誤算を反省する間もなく、ルソン島北部のリンガエン湾から上陸した本間雅春中将の日本陸軍第14軍の2師団4万人と対峙することになった。同湾の海岸線に布陣した20万の米比連合軍はあっけなく本間軍に駆逐された。日本陸軍はアメリカ軍がルソン島の各地に分散して設置した補給食品など兵站物資を接収しつつ、1942年1月2日にはマニラ市に進駐し、マッカーサーが指令室を置いていたマニラホテルの最上階に日章旗を掲げた。

バターン半島とコレヒドール島(マニラ湾内)に逃げ込んだ10万を越す米比軍は森の中を逃げまどい軍用馬から野生の鹿や猿まで食べつくして憔悴した。4月にはバターン半島守備部隊長キング少将が降伏、5月6日には家族と共に敵前逃亡したマッカーサーに代わって、アメリカ極東陸軍の指揮を取っていたウェインライト中将も全軍降伏の指示を出し、これに従ってミンダナオ島で徹底抗戦を覚悟していたシャープ准将も降伏した。

これに先立つ3月11日、コレヒドール島の地下司令室に籠っていたマッカーサー大将は魚雷艇4隻に妻子と中国人コックら使用人、それと側近たちを乗せてミンダナオ島へ、更にそこからオーストラリアに逃げていた。ただし、彼の頭の中では司令官という自分の立場を手放した自覚はなかったので、ワシントンがジョナサン・ウェインライト少将に指揮権を渡したことも、恐らく知らなかったと思われる。

マッカーサーは閉鎖恐怖症で潜水艦を嫌ったので魚雷艇ということになったようだが、これがどんなものか分からなかったので検索するとタカラトミーというプラモデル会社の模型が見つかった。小さいながら潜水するものではないらしい。それにしてもコレヒドールからミンダナオ島まで8000km、空と海を日本軍に制圧されていた中をこんな小さな船で無事渡れたというのは奇跡だ。マッカーサーという人はこうした幸運に何度か恵まれた人ではあったらしい。

かくしてマッカーサーは当時、捕虜になる運命にあったわけだがFDR(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)大統領は当初から捕虜になることを認めず、いっそアパッチ族に全滅させられたカーター将軍のように米兵全滅も視野に入れていたようだ。一方、アメリカの一般市民の間では「第一線で活躍するマッカーサー」という念を入れたマスコミ操作(これこそがこの将軍の才能だった)が奏功して、「英雄マッカーサーを救え」の世論が根強く、我が子にダグラスという名を付ける親が顕著に多かったという。この辺のことにも気を使わざるを得ないのが、アメリカ大統領というもので、後述するように、ここにこそ日本の活路もあったのだと思う。なんとFDRは1942年4月1日付けでマッカーサーに名誉勲章を授与している。

実際にはマッカーサーは大統領の指示も受けずに、家族や使用人を連れてオーストラリアに敵前逃亡した「死に体」の身だった。そのマッカーサーを救ったのは英国首相ウィンストン・チャーチルだった。英国極東軍はシンガポール沖で取って置きの主艦プリンス・オブ・ウェールズその他を失い、数少ないオーストラリア兵を欧州戦線に送り込んでしまっていた。チャーチルは英連邦の一角、オーストラリア、ニュージーランドをアメリカと一体で守る西部太平洋総司令官としての英雄マッカーサーが必要だった。チャーチルはその旨をFDRに要請し、受け入れられた。こうしてフィリピンの敗将マッカーサーは南西太平洋方面軍最高司令官としてアメリカ軍の他、オーストラリア、イギリス、オランダ軍をも率いることになった。

 

2.7万6千名の捕虜の使いかた

日本軍のバターン攻略には5ヶ月かかったが、これはマッカーサーらが善戦したというより、日本軍がバターン半島占領を重視しなかったためで、その気になればより迅速に米比軍といよりアメリカ極東陸軍を降伏に追い込めた。ただし、そうなると日本軍には10万人近い捕虜の保護という難題が課されることになる。結局日本はこの問題の処理に失敗し、既に飢えで瀕死の捕虜群(7万6千人とされる)をバターン半島最南部からマニラ北方のサンフェルナンドの収容所まで徒歩で移動させるという愚挙を演じ、7000人から1万人と呼ばれる死者を出してしまった。これが戦後、「バターン死の行進」として世界中に知れ渡り、日本軍の残虐の象徴とされることになった。

アメリカ極東陸軍の捕虜のうち何パーセントがアメリカン・ポーイだったか正確には分からないが、1941年12月時点でアメリカ極東陸軍の兵力3万1千人、うちフィリピン・スカウト1万2千、他にフィリピン陸軍(これもマッカーサー大将の指揮下)10万という記述(ウィキペディア「アメリカ極東陸軍」)があるので、2万人前後のアメリカ市民が捕虜の中に居たと思われる。

そもそもフィリピンの人たちは武装解除して日本軍の捕虜という状態から解放すれば良かったわけで、日本の占領軍が責任を問われる捕虜の数は極力減らすべきだったろう。その上で残ったUSAの市民たちの保護と健康維持に努めつつ、アメリカ大統領に和平ないし休戦の決断を迫るための人質とすべきであった。

仮にその数が1万人に満たなかったとしても、その人々の無事帰還を願う人々のもたらす政治的圧力はアメリカ軍最高司令官としての大統領の決断を左右し得たはず。この際、日本側が提示する条件はわずかで良く、開戦直前に廃止された日米修好通商条約の復活がひとつ、それと満州国の保全、これだけで良かったのではないか。1942年5月6日、ジョナサン・ウェインランド少将(当時)の降伏の報を得てから、休戦提案の可能性があったのは数週から1ヶ月以内だったと思う。

では、どのルートを使ってアメリカに通報するか? ソ連ではない。日ソ不可侵条約は結ばれていたが、ヤシフ・スターリンにはこれを尊重する気が全くなかった。しかも当時(1942年5月)は前年から始まり、ドイツ有利で進んでいたナチスドイツのソ連侵攻の優劣が分岐点を迎えようとしていた時期で、他国の休戦協定に乗り出す余裕など無かった。ではどこか? 実はあったのである。条件の整っていた国が。

 

3.スウェーデン王室と小野寺大佐の和平工作

第二次大戦の数少ない中立国の中で影響力のありそうなのはスイスとスウェーデンだが、ナチスの露骨な侵攻を耐えていたスイスにそのゆとりはなかったろう。スウェーデンには大きな可能性があった。

敗色濃くなった1944年から在ストックホルム日本大使館の駐在武官であった小野寺信(おのでら・まこと)大佐によるスウェーデン王室と天皇家との信頼関係に基づく王族間和経て工作が進んでいたことはNHKの特集(『日米開戦不可ナリ~ストックホルム・小野寺大佐発至急電』、1985年12月放映)にもなったそうで、多くの人にとって既知のことのようだ。私自身は今回これを書いているうちに初めて知った事で、NHKの特集番組も見ていない。

小野寺工作は小磯内閣(1944年7月22日~1945年4月7日)の頃には実現に近づきつつあったそうだが、軍部(特に大本営を牛耳っていた統制派軍人たち)の一途なソ連頼みに邪魔されて実現に至らぬまま、小磯内閣の瓦解と共に水泡に帰し、1945年8月6日を迎えてしまった。

ここに述べている1942年というのは、その小野寺大佐が真にストックホルム公使館附武官として赴任(1942年1月)した年だったから、その年5月であれば、当然彼の能力を使い得ていたわけである。

勿論実際にはそれは起こらなかった。代わりに彼は前任地のひとつであったバルト3国(ラトビア、エストニア、リトアニア)の民族独立派の人脈を使ってソ連中枢の動向を精密に把握するなどの大活躍をするのだが、各情報は大本営によって無視され続けてしまう。

しかしスウェーデン王室と日本朝廷との交流となると、さすがの軍部も手を出しかねたはずで、1942年という早期にフィリピンの米兵捕虜の保護と送還のための休戦、そして和平への動きがストックホルムを舞台に進み得ていれば、とつい考えてしまう。言うまでもないが、この時期、アメリカには原爆もB29も無かった。日本が勝ったという形でこの戦争から手を引きうる唯一の機会はこの時だったと思う。(つづく)