8月6日から考えていること その8

ポツダム宣言

 

この連載の始まりは以下のようであった。

「我々の国は1945年の8月15日に連合軍に無条件降伏した。いわゆる「玉音放送(昭和天皇からのラジオを介した国民への告知)」なる「敗戦のお報せ」があった。私は1941年生まれだから4歳になっていて、既に海馬体の細胞構築も終わっていた時期だから、当時からの記憶は無理に辿ろうとすれば、あやふやながら繋がらせることが出来る。」

それから76年を生きてきた。情けないことに「今見える過去は7日ほど前まで、予測できる未来」は明日までという惨状だ。しかし昨年の8月6日には何かしら見えるものがあるような気がした。それも今となってはおぼろだが、思い出すままに挙げてみると次のようなことだ。

#上記文章の中の1945年8月15日無条件降伏というのは違っていて、あの日はポツダム宣言(英米中国首脳による日本への降伏勧告文書。別名、米英中3国共同宣言)受諾の日だそうだ。この降伏決定に一部軍人たちからの異論があり、それを抑え込むための天皇自身の見解発表が玉音放送だったという。ポツダム宣言の受け入れ決定が8月15日で、降伏文書の調印は9月2日。東京湾に乗り込んできた戦艦ミズーリの艦上に片足が義足の重光葵外相(当時は東久邇宮内閣)が苦しそうに上ってきて甲板中央に置かれた文書に調印している画像を幼い時、映画館でのニュースで見た。本当の終戦はこの調印終了の時からだそうだ。

#ポツダム宣言のポツダムとはベルリン郊外にあった宮殿の名。つまりこの時すでにドイツは降伏していた(1945年5月7日)。同年7月17日から8月2日かけて英国首相ウィンストン・チャーチル、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、ソ連書記長ヨシフ・スターリンがこの宮殿で戦後処理を話し合った。その中で出てきた議題のひとつが未だ交戦中だった日本への処遇だったが、意見が整わなかったので、この件での3者合意はなかった。ソ連は当時「日ソ中立条約」に拘束されていたが、これを放棄して日本に宣戦布告することにしていたことが合意を妨げたのだろう。結局、このポツダム会談の最中にトルーマンと側近たちだけで13条からなる勧告が作成され日本外務省に打電された。

当時の鈴木貫太郎内閣は、3国共同宣言は隠ぺいしてもいずれ暴露されると見て、宣言そのものを論評せずに公開した(7月27日)。しかし当時の新聞は「笑止!自惚れを撃破せん」云々といった論調で「聖戦完遂」を煽り、鈴木首相への取材からも「宣言は黙殺」との文言を引き出した。この「黙殺」が「リジェクト(拒否)」と判断されたことを以て、トルーマンは次の対日作戦の遂行を指示した。広島への原爆投下である。

因みに「ポツダムにおける宣言」(1945年7月26日)の第13条には次のようなことが書かれている(原文英語)。

「我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速かつ完全なる壊滅があるのみである」。

#1945年8月6日、広島への原爆投下。しかしそれよりも8月9日未明(日本時間)、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国、朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始するとともにポツダム宣言への参加も表明したことの方が、その当日に開かれた「最高戦争指導会議」における議論(ポツダム宣言受容の可否)に影響を与えたと思われる。この日に至るまで日本の中枢はソ連との中立条約に頼り、ソ連に終戦提案をさせようと試みていたからである。この会議の最中に長崎市への原爆投下の知らせが届いた。しかしそこでもなお、戦争遂行、本土決戦を主張するものがいて結論が出ず、聖断(天皇の決断)を待つことになった。という経過を経て8月15日の玉音放送に至ったという。その録音原盤をめぐっても、それを奪取して本土決戦を敢行しようとする勢力の介入があり、数人の人々が死んだ。(つづく)