8月6日から考えていること その5

続・宋家の3姉妹

 

(a)孫文の死

チャーリー宋は次女・宋慶齢と孫文との結婚(2015)に激怒し、この2人との縁を切った。それによって彼の名は歴史の文脈から消え、今となっては彼の死(2018年)について知る人もわずかである。チャーリー宋は娘(宋慶齢)と親友(孫文)に裏切られた3年後、上海の自宅で失意のうちに死んだ。(シーグレーブ、S. 前掲書)

一方、孫文が死ぬのは上海から東京経由で北京に着いた2025年で「革命途上に倒れた国父の死」として憂国の中国知識人の総てから哀悼を捧げられた。

2015~2025年の間に生じた大事件というと、まずソヴィエト連坊創設(1922)とコミュニスト・インターナショナル(コミンテルン)の成立であろう。この国と組織は1991年の瓦解まで世界中に影響力を持ち、特に隣国中国への浸透は盛んに試みられた。

その浸透作戦の受け皿になったのは孫文、その人であった。孫文はホノルル生まれと称してアメリカ国籍を持っていたり、日本人を含めた複数の妻を娶ったりしていて、私たちからすると怪人だが、アメリカ人としてのパスボートで世界中に中国革命と三民主義(民族主義、民主主義、民権主義)への支持を集めた点はあっばれという他ない。

孫文は当初、日露戦争を勝ち抜いた日本をモデルとし、日本政府の支援を得ようと試みた。しかし第1次大戦後の日本が旧ドイツ租界の青島(チンタオ)攻略を足がかりに山東半島一帯から満州へかけての支配を要求する所謂「対華21カ条要求」を袁世凱政府(当時)に要求(2015〜)するようになると、孫文と国民党は抗日姿勢に転じソ連との連嶺の下に国民党の発展を図ろうとするようになった。つまり第1次国共合作(1924〜1926)である。その合作の翌年、北京で病死(結核)したのだが、その時、国民党政府の総裁であった。孫文は「連ソ容共」路線を進めたところで国民党総裁として死んだのであり、以降、妻・宋慶齢はこの方向の維持を生涯の目的として姉夫婦、妹夫婦と敵味方の関係に入った。

 

(b)宋美齢の結婚

チャーリー宋の3女、宋美齢は姉の宋慶齢がジョージア州の女子大学ウェズレリアンを卒業して帰国すると、マサチューセッツ州のウェルズリー女子大学に転校した。ここはUSAのファーストレディで後に国務長官を務め大統領候補にもなったヒラリー・クリントンの母校で、ヒラリーはここを経てイェール大学ロースクールに進んでいる。

この転校は4歳上の兄(前稿で弟としたのは誤り)宋子文がハーバード大学に通っていたからであろう。この二つの大学は近く、学生間の交流も多い。

宋美齢が蒋介石の妻だと言うことはよく知られていると思うので、ここでは私が意外に思ったことを挙げておく。宋美齢は1893年生まれで、蒋介石は1887年生まれ。二人は6歳違いで、宋慶齢の場合のような著しい年の差はない。

ただし宋慶齢が「(蒋介石には)広東だけでも数人の女がいる」と言ってこの結婚に反対したように女性との交際が盛んだったことは確かなようで。そもそも宋美齢との結婚話しが進んでいた頃、彼には陳潔如(チェン・チェルー)と言う名の愛妻がいた。上海の娼館に居た女性であった。蒋介石の二番目の妻(妾?)も娼館出身だったが、陳潔如の出現の結果、実家に置き去りにされてしまった。要するに宋美齢と出会う前の蒋介石はこの種の遊びにためらいを見せない人だったようだ。 しかし宋美齢との結婚というと、これまでのようにはいかない。

この結婚を企んだのはチャーリー宋の長女・宋靄齢こと孔称凞夫人である。彼女は目を付けた若い軍人、亡き国父・孫文の護衛官にも見えた蒋介石を宗家一門に取りこむことによって、宋家と孔家の一層の繁栄を確実にできると考えたらしい。しかし、こう言っただけでは宋靄齢の真の読みは理解出来ない。それを知るためには、蒋介石という人物がどのような人脈に支えられていたかを知らなければならない。

 

(c)紅幇と青幇

これを書くために参考にしている『宗家王朝』の著者スターリング・シーグレーブは蒋介石に対する筆致が極めて厳しい。若い頃の蒋介石の殺人や強盗を含めた悪事についての書類を偶然手に入れたとシーグレーブは述べている。

蒋は浙江省の塩商人の息子で早くに父を亡くし、母親だけの苦労のもとに育ち、14歳で3歳年上の嫁を迎えたというのだが、この記述からは、日本で軍事を学んだり、留学生として日本の軍部で訓練を受けたり出来た理由が分からない。

シーグレーブによれば、蒋は最初の失敗に終わった日本寄留(この費用は母が捻出)の際に青幇(チンパン)の組員であり革命家としての才もあった陳其美(チェン・チーメイ)と出会い、その弟分として青幇の支援を受けるようになってから我々の知る蒋介石になって来るのだそうだ。つまりシーグレーブは蒋介石を(孫文から見て)若く、気性の荒い「殺し屋」として描いている。

前稿に紅幇(ホンパン)なる組織について触れたが、紅幇や青幇は清朝後期の支那人阿片漬けに関して避けて通れない名であり、また中国国民党や中華民国などの成立にも係わっていながら、その真相となるとぼやけてしまうという、いかにも中国大陸らしい組織であり、名である。

単に地下組織とか暴力団ということなら日本にも同種のものがあるが、日本ではこれらが表に出ることは決してない。しかし紅幇というときの幇というのは清朝をしのぐほどの昔(民ないしそれ以前)から揚子江流域の人々の互助組織として機能してきたものなので、人民の力が試されるとなると、この種の互助組織が時の権力に加担したり、抵抗したりしてモノを言う。

紅幇は主として揚子江を生活の糧にする船舶労働者や沖仲仕などを主軸として発生し、それに流れ者、詐欺師、武装犯罪者、特に清朝後期からは阿片商人、阿片依存者を始めとする阿片消費者などを巻き込んで巨大化した組織である。そして青幇は、その上海における新版で、吐月省と見てよさそうだ。現実には多くの青幇は紅幇上がりだったりする。

これら河川流域民の組織と区別されるのが哥老会で、こちらは広東から浙江省などにかけての農民による互助組織を言うが、他家の者同士の親子の誓いが組や会の基本である点で、同様のものらしい。

これら組織は、清朝末期に始まったフランス疎開、イギリス疎開、共同租界など、清朝政府の手の届かない地域において疑似警察のような機能を果たし、サッスーン商会、ラッセル商会など300にも上る阿片商社の用心棒を務めた。

チャーリー宋に代表されるような新興富裕層もこれら商会の便利のために積極的に動き、時には紅幇・青幇とも連携した。こうした表社会と裏社会の「交流」を念頭に置かないと近代中国史はわからない。(譚璐美『阿片の中国史』新潮新書、2005. ただし、本稿に書かれている幇や哥老会の説明は筆者による推測に過ぎず、この文献によるものではない)

私たちがわずかに知るのは、長江流域のことだけで、北京や山東省ではこうした互助組織がどう機能していたのか分からない。更に現在、共産党はこれら伝統的互助組織を根絶やしにしたのか、あるいは何らかの形で連携しているのか。これを知ることも今のところ不可能である。(続稿あり)