8月6日から考えていること その4

宋家の3姉妹

(a)宋耀如(そう・ようじょ、ソン・ジァシュー)

チャールズ・ジェイムズ・スーンというのは宋耀如(実名は韓嘉樹=ハン・チアシュー)が南部メソジスト派のキリスト教徒としてアメリカ・デラウェア州ウィルミントン(フィラデルフィアの南端)で洗礼を受けた時の名前である。その後、テネシー州ナッシュビルのバンダービルト大学神学部を卒業して間もなく「4億の民(当時の中国人口)」の救済のための宣教師として上海に送り帰された。アメリカには9歳から14年間居て帰国当時は23歳だった(#1. 伊藤純、伊藤真著『宗姉妹』角川文庫、1998.及び #2. スターリング・シーグレーブ著、田畑永光訳『宋家王朝(上)』岩波現代文庫、2010. より引用、以下同)。

夢多き帰国だったかに見えるが、彼は間もなくうつ病になった。上海の教会の正門には「犬と中国人立ち入り禁止」と書かれていて牧師といえども中国人の彼は裏口からしか入れない。この屈辱に耐えられなかった宋牧師は、メソジスト派の信者、倪桂珍(げい・けいちん、ニ・グィジェン)という裕福な家の娘と結婚したのを機に宗教家を辞め、アメリカで覚えた印刷技術を生かして、聖書を出版して売るようになった。その表向きの顔とは別に、このキリスト教宣教師は長江(揚子江)流域一体を根城にする秘密結社というかギャングというかマフィアのような土着組織である紅幇の組員になった。ここから浙江財閥の一角を占めた実業家チャーリー・スーンが生まれる。

チャーリー宋という名称そのものは世話になったアメリカ人が間違えて聞こえた名前に由来するそうだが、表向きの印刷会社がうまく回り始めた中年期に入った頃、洗礼時の姓、Soonを捨てて12〜13世紀の中国王朝に由来するSoong(スーン)と綴ることにしたらしい。本当の姓は韓(ハン)で、南シナ海にあってベトナムに接し、椰子の木に覆われた海南島で1866年に生まれたらしい。これは偶々後に触れる孫文(ソン・ウェン)の誕生年と同じである。

親戚縁者の多くは貧しいこの島を離れ、当時のアメリカで盛んだった鉄路造設の現場で苦力(クーリー)として働いていたようだ。そうした縁者のひとりがクーリー生活から抜け出してボストンで茶などの中国産品を売る店を持つところまで出世した。そこで故郷に錦を飾った際に9歳だった甥を気に入ってアメリカに連れ帰り、小僧奉公をさせた。

この店では茶を飲ませることもしていたらしく、付近のハーバード大学に留学している富裕階級の坊ちゃんたちが茶を飲んでは学問の話をしていた。給仕していた小僧が自分も学校へ行きたいとごねたが許されるわけもない。すると逃亡してボストン港へ走り、船出しかけている密輸取締船に潜んで出港してしまった、というところから英語に流暢な中国人メソジスト牧師の誕生になる。勿論この間、信仰の厚い「善きアメリカ人たち」の世話になったわけだ。

そういうわけで、私にはチャーリー・スーンが胡乱な人物に思えるのだが、現代中国を語るのに欠かせない、ある意味で典型的な国際派中国人ということになっている。妻・倪桂珍との間に6人の子をもうけ、上から3人目までが娘たち、第4子からの3人が息子たちであった。

 

(b)宋靄齢(そうあいれい、スーン・アイリン)の結婚

チャーリー・スーンの名を知っている日本人は多くはないが、彼の3人の娘たち、特に次女・宋慶齢(そうけいれい、スーン・クィリン)は孫文の妻として、3女・宋美齢(そうびれい、スーン・メイリン)は蒋介石の妻として日本でも知られた名になっている。長女・宋靄齢の夫もなかなかの人物だが、日本では知る人が少ないと思うので多少詳しく紹介しておく。

宗家3姉妹が何かと話題になるのは、彼女たちの人生が中国現代史上に発生した重要事件と絡み合っているからであろう。例えば、羲和団の乱(1900)、辛亥革命(1911)、中華民国の建国と孫文(ソン・ウェン)による臨時大総統就任(1912)、宣統帝(溥儀)の退位による清朝崩壊と北洋軍閥・袁世凱の大総統就任、孫文による袁世凱政府打倒運動(第2革命)の失敗(1913)と孫文、蒋介石(チアン・カイシェック)の日本への亡命、ソヴィエト連邦の誕生(1922)と孫文の連ソ方針への転換、孫文の死(1925)の後に始まる蒋介石の右傾化による国民党と共産党との分離・闘争、第2次国共合作による抗日戦争(1936年末〜1937)と日本敗戦後に生じた毛沢東軍(紅軍)の蒋介石軍(国民軍)排除、等々である。

始めに挙げた義和団の乱に際し、優れた調停者として登場するのが孔称凞(こうしょうき、コン・シアンシー)という人で、彼の2番目の妻となったのがチャーリー宋の長女、宋靄齢である。

孔称凞は山西省・大谷(タイクー)の生まれで、孔家は孔子に繋がる名家であり、清朝以前から質店を営んで中国各地に支店網を持っていた。その本店が孔称凞の生まれた山西省・大谷であった。現地のアメリカン・ミッション・スクールに入れられてキリスト教徒になり、その後北京近くにあったキリスト教系私立大学で学んだ。義和団の乱が生じた頃は休暇で

実家に戻って身を潜めていたためにキリスト教徒狩りを免れたという。

義和団の乱とは、山東省(中国北部、渤海湾に面する地域)で発生した仏教系結社によるキリスト教排斥運動である。宣教師とその家族数百名が斬首され、中国人キリスト教徒2万人以上が殺されたという大規模暴動に発展し、扶清滅洋を旗印として掲げて北京市を攻略しようとした。

阿片戦争や第2次阿片戦争(アロー号事件)によって、支那人は大いに傷ついた。満州族(女真=ツングース系)の清朝に支配されてきたとは言え、彼らにはそれなりと誇りと秩序と固有の文化があったわけだが、阿片戦争での勝利をきっかけになだれ込んできた西欧各国やアメリカの宣教師たちの多くは、未開の人民を教化しようとの傲慢な態度が見られた。

それに伴ってどちらかと言えば富裕層の中国人がキリスト教化され、それに接することの少ない庶民たちには不安だけが残された。特に鉄道の敷設は海運業の衰退をもたらし、それに従事する輸送運搬業界の人々の失業を招くことがあって、まず彼らの不満がきっかけを作ったと言われている。

当時、清朝の政権を握っていた西太后はこの民衆動乱を義挙として西洋各国に宣戦布告してしまった。山東省に租界を作ってきたドイツを始めとする8カ国(日本を含む)が、宣戦布告に応じて軍を出し、近代化した各国軍によって大刀に棍棒だけの義和団の人々は撃ち殺され鎮圧されてしまった。

乱は山東省の隣の山西省にも及び、各国連合軍の義和団退治に清朝政府が悩むことになったが、政府は大谷(タイクー)に居た孔称凞の存在を知り、彼がキリスト教徒ということもあって、諸国軍との調停にあたらせた。

孔称凞はイギリスのやり口に疑問を持っていたアメリカ軍を窓口にして交渉をかさね、清朝に各国の要求を伝えることで結論(停戦)に導いた。このことが評価されて彼は清朝政府に感謝されただけでなく、アメリカで学ぶ機会にも恵まれてイェール大学経済学部の修士号を取り、山西省に戻った。

その後、旧式の質店を銀行に転換するなどの家業をしている傍ら、山西省太原のミッション・スクールに引き取られていた孤児の女性と結婚し、幸せだったという。ところが。この儚い女性は結婚後わずか3年で病死してしまった。

このことで、金や位階から離れたくなった孔称凞は、当時裕福な中国人青年の間で流行していた日本寄留を試すことにした。当時は、こうした人々を自由人士と言ったそうだ。

日本・東京ではYMCAの中国人リーダーの役割を担当していたが、そこで日本に亡命中のチャーリー宋に出会った。宋は所謂「第2革命」の失敗で袁世凱政府から追われる身となっていて、同じ理由で革命の当事者・孫文も東京にいた。その孫文の秘書を務めていたのがアメリカ南部(USAジョージア州メイコン)の女子大(ウェスレイアン学院)を出て上海に戻ってから父と共に来日していた宋靄齢であった。孔称凞と宋靄齢の結婚は、後に宗家が4大家族と呼ばれるようになる要因のひとつとなった。

 

(c)宋慶齢(そうけいれい、スーン・クィリン)の結婚と父の激怒

映画「宗家の3姉妹」(メイベル・チャン監督、ゴールデンハーベスト/フジテレビ等製作)にはチャーリー・スーンの娘たちだけが出てきて息子たち3人が完全に省略されているが、チャーリー宋の6人の子たちは全てアメリカで教育されている。

現代史的には長男・宋子文(そうしぶん、ソン・ツーウェン)も重要で、蒋介石の国民党政府を財務面から支え、1940年からは蒋介石の個人使節としてFDRに接触し続けた。第2次大戦後の1945年、国際連合創設会議には中国代表団長として出席している。

長女・宋靄齢が孔称凞と結婚した後、孫文の秘書を務めたのは次女の宋慶齢で、姉に続いてUSAジョージア州のウエスレイアン学院を卒業して20歳になっていた。そのとき孫文は父親と同じ50歳。宋慶齢は「革命の父」孫文を文字通り尊敬し、献身的に仕えた。その情愛は失意の孫文に最も必要だったと思われるが、関係は一時断絶する。チャーリー宋が一族引き連れて東京を離れ、中国へ帰ることを決断したからである。

帰る先は上海のフランス租界。そこは清朝政府の権力が及ばない処で、力を振るっていたのはフランス人の階級から言えば単なる巡査。中国人向けの顔としては紅幇のボス、「あばたの黄(ホァン)」こと、黄金英(ホァン・チンロウ)だった。前掲文献#2の著者、スターリング・シーグレイプによれば、「長江流域千キロ以上でいちばん力のあるギャングのボス」だったそうで、チャーリー宋はこの者の庇護を受けられる組員でもあった。

もの静かだが頑固という宋慶齢の特徴がはっきりとした形で立ち上がったのはこの時だった。いったんは抵抗しつつも父親に従って上海に戻った宗慶齢だったが、父親に日本帰還を懇願して拒否されると隙を見て家出、来日し、孫文の求婚を受け入れた。

この辺が日本人の私には理解出来ないことなのだが、孫文は中国人や日本人の妻が何人かいて、愛人となると伝記作家も持て余すほどの数であり、実は宋慶齢の姉・宋靄齢のことも気に入って、彼女を欲しいとチャーリー宋に申し込んで激怒させ、もう家に近づくなと言われていた(前掲書#2)。現代日本人の感覚だと、この点だけで、「偉人伝」の対象から外れてしまいそうになるのだが、孫文ないし孫中山は中華人民共和国(共産党中国)でも、中華民国(台湾)でも「国父」である。

映画「宗家の3姉妹」では、宋慶齢と孫文が日本の神社で結婚式を挙げる。めでたく式が済んだところへ神社の石段を走り登ってきたチャーリー宋が、息を荒くして孫文を難詰し、孫文も宋慶齢も無言という場面があった。事実もこれに近かったようだ。

チャーリー宋は実業家として財務面で孫文を支えたように記述されることが多いが、実際には孫文と同じく革命家であり、後述するギャング集団・紅幇(ホンパン)ないし哥老会(紅幇、青幇、哥老会などと地下組織の名前が出てくるが、それぞれの相違が筆者には理解できない。読む資料によっても違う。さすが「秘密結社」「地下組織」)との繋がりも孫文や蒋介石より早く、そして深かったと思われる。

孫文は毛沢東に率いられた共産党による制覇で終わる革命ドラマの初期に死んでしまう。宋慶齢はその寡婦として孫文の理想を掲げ持つ立場を取り続け、妹の夫になった蒋介石を「裏切り者」と罵った。国民軍が紅軍(共産党軍)に敗れて中国大陸駆逐された後も上海に残り、中華人民共和国の副総統として死んだ。ただし終生、共産党には入党しなかったという。(続稿あり)