8月6日から考えていること その3

フランクリン・デラノ・ルーズベルトの実像

フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)は、1933年3月から1945年4月までの足かけ12年にわたってアメリカ合衆国(USA)第32代大統領を務めた人である。この間4回の大統領戦にことごとく勝ち最後の勝利が45年3月だった。しかし、その1ヶ月後に死亡。その後、USAでは大統領は2期までという憲法改正が行われた。

(a)FDRは社会主義者に変身した

第一期目の就任当時、アメリカは、自国発の大不況(Depression)に世界を巻き込んでおり、これの克服こそがFDRの第一の公約であった。そのための方策を彼はニューディール(新規巻き直し)と呼んだが、それはアメリカ社会に強引かつ夢想的な社会主義を持ち込むことだった。

まず最初に水力発電施設を始めとする大規模なインフラ投資を続け、次いで各種政府機関を増設して「大きな政府」へと移行した。この流れでアメリカ産品の輸出先拡大を狙い、他の民主主義国家に先立ってソヴィエト連邦(ソ連、1922-1991)を承認した。ソ連は共産主義独裁に移行すると同時に、共産主義(コミュニズム)の各国への布教(拡散)を任務と考えるようになり、コミュニズム・インターナショナル、略してコミンテルンを国家統一の柱とすることになった。こうした独善はキリスト教とその布教様式に似ている。

FDRの思考様式の一部にも、これの影響があったとみるべきであろう。1929年以来の大不況に直面し、その克服に難渋していた人々の中には、これを資本主義の限界と感じていた者も多く、特に若い知識層の中に容共的な意識を抱えて政府機関に入り込む者が多かった。1945年4月、FDRの死後を引き継ぐことになったハリー・トルーマン副大統領(当時)は「事情を知らない」ことから副大統領に推されたとさえ言われた人だが、大統領に就任してまず驚いたのはホワイトハウスがコミュニストに囲まれていたことであったという。その中には、中にはハリー・デクスター・ホワイトのようなコミンテルンの工作員(スパイ)もいた(レコード、J.渡辺惣樹訳『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』、草思社文庫、2017 )。

FDRはまたドルと金との兌換をヨーロッパ各国の反発も顧みずに敢行したために世界恐慌は更に深刻となり、既に第1次大戦の敗北による賠償金支払いに苦しみ抜いていたドイツの暴走を引き起こした。共和党の政治家として生涯に渡ってFDRのライバルであり続けたハミルトン・フィッシュは、その著書(『ルーズベルトの開戦責任』(渡辺惣樹訳)草思社文庫、2017)の中で、「大統領は州権主義者(ジェニファソニアン)だった。そして社会主義者に変身した」(上掲本の第1章タイトルへの添え書き)と述べている。

肝心の社会主義的計画経済の成果となると、当然のことながら結果は惨憺たるものに留まり、1937年3月に始まる第2期就任前後の経済諸表は1929年当時と差が無いか悪化しているかであったという。この時点でFDRに残された手はただ1つに限られていた。戦争である。しかしそれは議会での可決を要した。そもそもFDRは戦争への加担はいかなる形でもしないという公約を掲げて大統領選挙に勝ち残っていたのである。当時、アメリカ市民の80%は戦争に巻き込まれることに反対だった。しかもその戦争はナチス・ドイツとの戦いを意味していた。アメリカ市民の中には多数のドイツ語圏出身者を含んでおり、彼らにとってナチス・ドイツは「病気になったドイツ」であり、ドイツ国民の大半は「良いドイツ人」に違いないと考えていたからである。この時点では、日本と戦うことになることを予測するアメリカ人など殆ど居なかった。

以後、1941年12月7日の真珠湾攻撃に至るまでの間、FDRはアメリカ市民たちを戦争に駆り立てる機会を狙い続けることになった。

(b)FDRの中国傾斜

FDRが第2期目の大統領に就任して半年も経たない1937年7月に北京郊外の盧溝橋付近で日中両国軍が全面的に衝突する戦争が始まった。日本政府(近衛文麿内閣)は関東軍(満州国関東州に置かれた日本軍を指し、当初は満州鉄道の守護を目的とした)を統制できないまま宣戦布告もないままに陸海軍を増派して北支事変と呼んでいたが、戦火が上海にまで及ぶようになると支那事変と呼称を変えた。実質的には日中戦争そのものに他ならなかった。

この時期は偶然(?)、毛沢東が率いる中国共産党と蒋介石の国民党の国共合作が成立した直後であった。その数ヶ月前、中国国民党軍を率いた蒋介石が紅軍(中国共産党軍)を壊滅直前にまで追い詰めながら、部下の張学良(父親の張作霖〈奉天軍閥の指導者〉が、1928年奉天爆殺事件で、関東軍に暗殺されている)に拉致監禁され、抗日共同作戦を強要された西安事件が起こっていた。

蒋介石が抗日を後回しにしてまで紅軍平定を優先したのは、紅軍の背後にソ連とコミンテルンの影を見ていたからだが、この西安事件をきっかけにして蒋介石軍は日本に本格的に向き合うことを強いられるようになった。以後、毛沢東らの紅軍は抗日を叫びながらも苦戦する国民軍の背後で勢力を養うことができた。

戦後、毛沢東のもとを訪れて謝罪する日本人たちに対して毛沢東は「(日本の)関東軍による大陸侵入がなかったら、私は今日こうして居られなかった」と何度も語ったそうだ(宮崎誉『毛沢東、日本軍と共謀した男』新潮新書、2015)。

この本の著者はこの時の国共合作が偶然とするには余りにも適時に過ぎるので、恐らく日本の中国大陸侵攻の方針がコミンテルン側に漏れていたものと疑っている。前回に述べたように近衛文麿内閣には嘱託・尾崎秀実を通じて、ドイツ大使館員ミヒャエル・ゾルゲからソ連邦軍のスパイ組織へと情報が渡っていたはずである。なお、尾崎は自分の活動がコミンテルンに届いていると信じていたというが、現実のゾルゲはソ連軍の配下にあった。恐らくこの線を辿って毛沢東は日本の出方を掴んでおり、それを踏まえて張学良を説得し蒋介石の自由を奪ったと思われる。

この当時、ソ連政府以外にいてコミンテルンの動きの全貌を理解していた人など居なかったのではないか。逆に言えば、FDRのもとにも、大陸中国の上記のような情報が届いていたと考えられなくもない。盧溝橋事件に先立つ1931年9月、柳条湖事件をきっかけに日本政府は満州国の設立を宣言。これが国際連盟42カ国に反対されると連盟から脱退して孤立の道を辿ることになっていた。こうした日本の暴力的膨張路線の背後にあった経済事情もまた、アメリカ発の1929年大恐慌という大津波の連鎖があったと思われる。

当時のアメリカ経済はアメリカ市民が気づかないうちに巨大化しており、その破綻が敗戦後の賠償金支払いに苦しむドイツと辺境アジアで巨大帝国の夢を見ていた日本の誇りに痛撃を与えていたということだったのであろう。

FDRによる中国、と言うより蒋介石への肩入れが顕著になるのはこの頃からであるが、1933年の大統領就任以後、彼の反日政策は徐々に強化され、1941年までには戦争以外に選択肢がないところまでに日本を追い詰めた。

こうしたFDRの中国への傾斜はアメリカ人の中にも奇異と感じる向きがある。筆者が読了したのは以下の2冊だが、これらの中には、この件に関する多数の解説が含まれている。

#1 ジェフリー・レコード「理解し難いルーズベルトの中国偏重」『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』第5章・失敗したルーズベルトの日本牽制、105-108頁、2017 。

#2 ハミルトン・フィッシュ「はじめに」『ルーズペルトの開戦責任』、23-36頁、草思社文庫、2017.

(c) FDRの母方祖父は阿片商人だった

FDRの母方祖父にあたるウォーレン・デラノ・ジュニアはイギリス企業、ラッセル商会の幹部だった。当時、カルカタ(インド)などから上海の洋行(貿易商社)によって持ち込まれた阿片は広州、重慶など、長江(揚子江)流域に巣くう哥老会、紅幇(ホンパン)や上海の青幇(チンパン)など、マフィア類似の秘密結社(暴力組織)を利用して販路を広げていた。

阿片戦争のイメージから中国への阿片売り込みはイギリスの専売のように思うかも知れないが、イギリス人の後にはフランス人もアメリカ人も続いていて、それぞれの国が清朝中国を恫喝しては、重要都市の領事館を中心に租界と呼ばれる清朝政府の権限外の地域を獲得していた。ドイツや日本もイギリスに続く国々の一角を占めていた。イギリスの場合、香港という都市全体を自国領とした点で悪質の度合いが強い(この国の議会は対清阿片戦争を討議し1票差ながら、これを可決した)が、アジアの中にありながら、そして孫文、蒋介石、周恩来のような知日の俊才たちの憧憬を集めていた日本が欧米列強と並んで清朝中国を威していたわけだ。このことを私たちは恥としなければならない。

話はそれたが、アメリカ人であるウォーレン・デラノ・ジュニアは阿片を商品のひとつとするラッセル商会で活躍し、大金と人脈を獲た上で帰米した。その人脈の中には、紅幇に連なる中国人たちもいたし、チャーリー・スーン(Soong)こと宋耀如(そうようじょ)のような華僑出身の上海財閥もいた。

ウォーレン・デラノ・ジュニアの一人娘のサラは、8歳から11歳まで香港で暮らしていたという中国になじみの深い女性だが、ジェームズ・ルーズベルト一世という鉄道会社の幹部の後妻に入った。サラが難産の末に生んだ唯一の子どもが息子、フランクリン・デラノ・ルーズベルトである。ルーズベルト家は18世紀の半ばオランダからニューアムスデルダム(現在のニューヨーク)に着いた移民で、一族の中から26代USA大統領セオドア・ルーズベルト(共和党)が出ている。

サラと結婚した時、夫ジェームズは51歳になっており、前妻の長男には既に子が生まれていた。このような年齢差もあってFDRの子ども時代は殆ど母方祖父ウォーレン・デラノ・ジュニアのところで、中国ゆかりの環境の中で過ごした。このことを抜きにしてはFDRの中国傾斜の源をたどれない。

FDRは当時の上流階級の人らしく住み込みや通い家庭教師たちによる教育を受けた後、大学予備校(高校)であるグロトン校を経てハーバード大学とコロンビア大学を卒業した。そのハーバード時代の同級生にチャーリー・スーン(宋耀如)の第4子で長男の宋子文(そうしぶん、ソン・ズーウェン)がいて、その姉で宗家3姉妹の3女、宋美齢(そうびれい、ソン・メイリン)は蒋介石の妻である。

FDRが大統領になった1933年4月は柳条湖事件(1931年9月)の1年半前、日中戦争の開始(盧溝橋事件、1937年7月)は、FDRの大統領第2期目開始の3ヶ月後である。これら日本による中国大陸への侵攻が上記のような宗家(Song Family)の人々によるFDRへの働きかけを招かなかったはずがない。(続稿あり)