なぜ、この映画? 「ヴィンセントは海へ行きたい」

以前、クリニックのデイナイトケアで行っていた「斎藤講演」の中で、私が観た映画について解説するという時間がありました。その時に書いた文章を時々ご紹介していきます。

 

映画「ヴィンセントは海へ行きたい」

映画「ヴィンセントは海へ行きたい」はトゥレット病(Tourette’s Disoeder)という重症チック(コプロラリア=汚言症を伴う音声チックを伴う)を患うヒキコモリの青年が主役。この人の母が肝硬変で死に、別の女のもとに走っていた政治家の父親が彼を精神病院に入れます。そこで知り合った摂食障害(拒食症)の女性マリー、不潔恐怖の青年アレクサンダーと一緒に、担当医ローザ先生の車を「ちょっと借りて」ドイツからオーストラリア経由でイタリアの海岸まで無銭旅行するというロード・ムーヴィーです。この経路はいつも背景にアルプスが写っていて壮大に美しい。

因みに列車だと、ミュンヘンからオーストリア経由でイタリアのヴェローナ・ボルタ・ヌォーヴォ駅につくまで5時間半だそうです。列車では、オーストリア経由とは言えアルプスの裾野をまわるようで山容は遠くに見えます。映画の中のハイウェイでは雪山が間近に迫って圧巻でした。

この映画の見所(考え所)は、登場人物5人(上記の3人とそれを追う2人の中年男女、患者たちに逃げられた女医ローザとヴィンセントの父親ロベルト)それぞれが抱えるオブセッション(obsession 執着、とらわれ、取り憑かれ、強迫観念)です。患者3人それぞれの執着は各自の症状に表れています。本音を言ってはいけないところ(例えば母の葬式ミサを執り行っている教会の中)でウンコ、クソなどの汚言を叫んでしまう。これってやってみたいと思うこと、ありませんか?

拒食症のマリーの身長は170cmくらいだと思います(主役の男優フロリアン・ダーヴィット・フィッツの188cmと比較)ので、彼女の体重は40kg前後だから、BMI(ボディ・マス・インデックス)は13.8(正常値21~25)。もう少し痩せて35kg以下になれば昏睡したまま心停止するでしょう。彼女の身体はまさに溶けて消えかかっている。それが「死にたいマリー」の自己表現なのです。食うことは生きたい自分を晒すことなので醜い。だからそれをしないというストイシズム(禁欲主義)こそ、彼女に取り憑いた自己愛表現です。

第3の青年アレクサンダのミソフォビア(mysophobia 不潔恐怖)になると前2者よりありふれています。ミソフォビアック(不潔恐怖者)とは自己の抱える漠たる不安をより可視的、具体的な汚れに置き換えることです。漠然とした不安には対処のしようもありませんが、汚れに翻訳できるなら、それを拭き取ることができる。しかし実際には物理的実態である汚れを拭き取っても不安は残ったままですから、周囲が完全に清潔になることはありません。

ところで、こうした漠然とした不安はどうしてこれらの青年たちに取り憑いたのでしょう。結論を言えば、その実態は「世間(自分を観察する自分も、その一部)の視線」という敵への恐怖です。自分の中に既に世間が入っているので、この敵からは身を隠すこともできません。ヴィンセントも、その他二人も親から離れて世間の視線に晒されるようになったときに発症しました。そんなに怖い世間ならサングラスで遮ればいい。死を賭けた昏睡に入るのもいい。覚醒するまでの間、怖がらずに済みます。あるいは助けを求める人のもとに馳せ参じるのもいい。人を救うのに必死でいる間、その人のチック踊りも汚言叫びも減るし、例えクソ!と叫んでしまったとしても世間はそれを当然と受け入れるでしょう。

それでは最後に、中年の男女二人に取り憑いた強迫観念とは何かを考えてみましょう。女医ローザにはマリーへの罪悪感がありました。死ぬまで痩せようとするマリーに、拒食症者だったローザは苛立っていました。「いつまでも治療に抵抗するなら身体を拘束して栄養剤を流す」と彼女はマリーを脅迫したはずです。それに怒ったマリーの反抗が車のキー窃盗と深夜ドライブという「シャレ」だったのです。そこにヴィンセントが現れて、自分というものの種が仕込まれたイタリアの海浜リゾート、ヴィンセント・ホテルに行きたいと言ったことからシャレにならなくなってきました。

女医ローザも以前はマリーと同じ病気だったので、マリーが一直線に死を目指していることがわかります。「死なせてなるか」という執着がローザを支配し、彼女は病院の仕事を放り出して3人を追うのです。

ヴィンセントの父、ロベルトは瞬時に解決するはずだった息子の拘束に失敗して腰を据えるようになった頃から前妻(ヴィンセントの母)との楽しかった旅を思い出すようになります。かつて愛した女の輝くような笑顔が息子の置き忘れた缶の中から出てきたのです。結婚前、この女をイタリアのリゾート・ホテルで抱き、そのホテルの名前を息子の名前にしたのです。あの時、彼は幸せだったと認めます。その写真に自分は写っていないのですが、ローザ先生は「この女性の笑顔を見てると、これを撮った人も幸せだったとわかるわ」と言いました。その何カットか後に、ロベルトはローザに「あなたは名医だ」と言い残すのですが、それはこの場面に対応するのだと思います。

映画に出てくる中年男女の執着は人を成長させる健全なものです。しかしそこに至るまでの彼らは別の、もっと病的な強迫にとらわれていました。この映画はそのことも訴えているのですが、それが何かわかりますか?

彼らを健全な医師や政治家と見させていたもの。世間との妥協、良い評判を維持しなければという強迫。それらに突き動かされる日々だったからローザ医師は近所の子どもを泣かせたヴィンセントを怒鳴りつけたのです。

もっと露骨なのは政治家として首相を目指そうとするロベルトです。彼にとって息子ヴィンセントの脱院を知らせる電話は演説中に顔のまわりを飛び回るハエのようなものでした。かといって放ってもおけないのは、良い家庭人のフリを保たなければやっていけない政治家という職業についている自覚があったからです。演技、演技、すべてエンギ。

しかし彼らは青年たちを追ううちに脱皮しました。自分の治療方針の誤りを悔い、身を挺して患者を救おうとする医師へ、息子を信じ、彼の向かいたいところへ手放す父へ。この映画は青年3人の変化を優しく追いながら、彼らとかかわる二人の中年を介して私たち大人にも進化への可能性が残されていることを伝えようとしてくれているのです。

 

*「ヴィンセントは海に行きたい」〔2010/ドイツ〕

(監督)ラルフ・ヒュートナー(主演)フロリアン・デヴィッド・フィッツ