8月6日から考えていること その7

それからの3姉妹

 

(a)ルーズベルトの変心と宋王朝

カイロでの蒋介石夫妻を交えた会談に引き続いて、英米の首脳陣はテヘランに飛んだ。そこにはソ連のヨシフ・スターリンも来ていて、この3者会談でFDR(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)は重要な感触を掴む。それはソ連がドイツとの戦争の終結後、日本(当時は日ソ中立条約締結中)に宣戦布告するということだった。ソ連はその見返りとして不凍港・大連と満州鉄道の使用権を求めた。

この予告は後にウクライナで開かれたヤルタ会談(1945年2月4日~11日)で明示された。当然ではあるが、大連や満鉄を奪われることになる蒋介石はこの席に呼ばれていなかった。そもそもテヘランでスターリンと会ってからのFDRは方針を変えている。ソ連の対日参戦があるなら中国大陸の空港を維持しなくてもよいかも知れない。そうなると、危険なビルマへの地上戦にアメリカ兵を使う必要はない、ということで蒋介石夫妻はカイロから帰国して間もなく、ビルマ侵攻の延期を知らされることになった。

激怒した蒋介石は、それならと武器貸与法(アメリカ政府側の法律)に基づくドルを要求し続け、こうした中華民国の態度は、かつて宋美齢が危惧したように「物乞い」と取られるようになった。

中華支援としてのドルは蒋家と宋家、長女・宋靄齢の夫・孔称凞、そして、かつて蒋介石が師事した孫文世代の先輩、陳其美(ちんきび)に繋がる陳家の4大家族だけが潤っているとの世評が流れ、これを指して人々は彼らを「宋王朝」と呼んだ。

宋王朝は日本の侵攻に良く耐えたが、戦勝したとは言えない。しかも第2次大戦が終わって見ると、大連と満鉄はソ連のものになっていた。

戦後、国共内戦の時代を迎えると、先端を切ったのは蒋介石の国民党だった(1946年)。ドイツとアメリカから与えられた最新鋭の武器と100万を越える兵士が破竹の勢いで中国北東部を中心に展開している中華ソヴィエト共和国を潰しにかかった。

当時、八路軍、新4軍に編成し直していた紅軍(共産党軍)は、旧式の武器しか持たなかったが、目前には降伏した日本軍がいた。大砲、対空砲よりも彼らが欲しがったのは飛行機とパイロットそして整備工のセットである。降伏した関東軍がこれらを、そのまま与えたことと紅軍の勝利とは無関係ではない。どうしてこんなことが起こり得たかと言えば、実は紅軍の頭目、毛沢東(もうたくとう、マオ・ツォートン)と日本軍との間には「人には語れぬ深い関係」があったからである(宮崎誉『毛沢東―日本軍と共謀した男』文芸新書)。

考えて見れば当たり前のことである。紅軍、国民党軍、日本軍の三つ巴の中で、蒋介石の国民党軍が抗日の前線に立つなら目立たない形で紅軍は日本軍と結ぶのが軍略と言うものだ。傀儡政権(汪兆銘政府)統治下の南京には紅軍と日本軍を繋ぐ秘密工作員(毛沢東以外の中国共産党幹部も知らされていなかった)が往来していた。1949年10月、中華人民共和国が成立した直後、毛沢東がまずやったことは、秘密工作員を各地で逮捕し、拘留し、あるいは獄死させることだった(宮崎誉『毛沢東』文芸新書)。

当初、1946年の頃には破竹の勢いに見えた国民党群はやがて膠着し、じわじわと押し返され始めた。1948年になると共産党軍の方が長江渡江作戦を長江流域各地で起こし始め、1949年初頭には国民党軍の主力は台湾に追い落とされた。

 

(b)宋美齢の挫折

国共内戦で戦況が逆転しつあった1948年11月、宋美齢は渡米に踏み切った。中国を共産化してはならないという決意のもと、1943年のアメリカでのブームを頼りにしていたのだろうが、今回は微風ほども吹かず、逆風なら暴風とも言えるほどに大きなものを食らった。前回同様、蒋介石にも政府にも断りなしの来訪だったので、駐米中国大使は当惑した旨コメントした。

FDRが1945年4月に死んだ後を継いだハリー・トルーマン大統領は彼女に会おうとせず、「蒋介石には38億ドル注ぎ込んだ」云々の発言が飛び出したのもこのときであった。

トルーマンは台湾国民党政府の大陸侵攻についても「アメリカは関与しない」と発言した。雑誌や新聞が好意的に取り上げるわけでもなく、かつてFDRの妻エレノアが述べた以下の言葉が飛び交った。

「宋美齢夫人は常々民主主義について語るが、民主主義を生きていない」

そもそもアメリカは「FDRの変心」によってソ連に満州領有を認めたテヘラン会議及びヤルタ会談以降、ニクソン・ショック(1972年2月、リチャード・ニクソン米国大統領は突然中国を訪問し、毛沢東、周恩来と会見した)に至るまで中国を忘れてしまっていたとしか言いようがない。

その間、朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日)やベトナム戦争(1964年 8月2日~1975年4月30日)があるとアメリカは「東アジア」 に不器用な介入をしたが、ことごとく失敗している。対等な外国として敬意をもって接するということがなかったからである。

現在のアメリカは突然火の付いたように共産中国を敵視し、かつて日本にやったような圧迫策に出ている。中国はかつての日本のような愚行(真珠湾攻撃)に走らず、敬意と尊重の態度で日本と接し、孫文が試みて成就しなかった日華(華日)大同盟を達成する方向を取るべきだ。

宋姉妹の話に戻ろう。宋美齢の長姉、宋靄齢は1947年から隠遁するかのようにニューヨーク市郊外リバーデールに落ち着いていた。夫・孔称凞が汚職・収賄などの容疑で捜査対象(この捜査にはFBIも関心を抱いていた)になったために中国大陸から離れたのである。宋美齢はアメリカ訪問が失敗に終わったことが明らかになっても、この姉の家に居着いて、1950年1月まで滞米を続けた。おそらく、この時期、台湾は中国共産党軍にひと吞みにされそうで帰れる状況になかったのだろう。

この中国国民党の危機を救ったのは1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争であった。さすがにこの頃にはアメリカの親ソ連・容共路線がポーランドから満州更には日本の北方諸島までを真っ赤に染めてしまったことへの批判が反民主党(共和党)側から活発になり、FDRの親ソ路線への批判や、政府内部に巣くっていたコミンテルンの工作員の炙り出しも始まりかけていた。

トルーマン大統領は言ったばかりの台湾不介入を撤廃し、蒋介石への軍事援助を再開。これによって今日に至る台湾独立の維持が可能になった。

宋美齢は105歳(前稿で103歳としたのは誤り)まで生きてニューヨークで死ぬのだが、もう一度だけアメリカで吠えたことがあった。民主党大統領リンドン・ジョンソンがトンキン湾事件をきっかけにベトナム戦争に深入りしてしまったとき、渡米した宋美齢は大統領に歓待され、母校(ウェズレイ女子大)での講演も含めて幾つかの講演会や記者に招かれた。そのときの宋美齢は持論の核戦争攻撃論を各地で言って歩いたのだが、その攻撃地には勿論北京の共産党政府も含まれ、そこには姉・宋慶齢が副主席として住んでいたわけだから、「容赦ない懲罰論」と言うべきだろう。因みに毛沢東は核兵器生産を急ぎ、トンキン湾事件のあった1964には原爆実験を、1967年には水爆実験にも成功していた。

こうした核拡散の動きに憂慮する声が高まりつつある中にあって宋美齢の核攻撃論は、彼女を賓客扱いしたアメリカにとっても持て余し状態だったと言われている。

蒋介石が88歳で死んだときには、彼女を国民党総裁に据えようとしたプチ・クーデターが起こりかけた。しかし蒋介石は、前妻の子、蒋経国への継承をスムーズにするように謀っていたので、何事も起こらずに終わった。

更にその後、蒋経国の死に際しては、内省人(台湾人)の李登輝が総裁に立つのを嫌った宋美齢がとことんまでこの人事に反対したとの見方がある。そして李登輝の総裁就任が滞りなく進むのを見て、宋美齢は完全に台湾を去った。死んだのはニューヨーク市、姉・宋靄齢と暮らしていたニューヨーク市郊外リバーデールの家であったと思われる。享年105歳。

それ以前、1981年5月には政治的宿敵と化してしまった宋慶齢が北京の宏大な自宅で死んだ。死因は慢性リンパ性白血病。臨終の報を聞いて中国共産党中央政治局は宋慶齢に「中国共産党名誉主席」の称号を贈った。享年88歳。宋慶齢は自分のための記念碑等を建立することを拒み、上海、万国公募にある家族の墓を選んだ。そこには父・宋耀如(宋嘉樹)以下、母・倪桂珍(げい・けいちん、ニー・クェイツィン)、宋靄齢、宋慶齢、宋子文、宋美齢、宋子良、宋子安という一家の名が入っている。実はこの墓は文化大革命(1966~1976年)の時代に紅衛兵たちによって荒らされ、宋慶齢以外の姉妹兄弟の名が削り取られていた。中国共産党は死に臨む宋慶齢に主席の名誉称号を捧げ、墓にあった兄弟姉妹の名を彫り治し、家族一同に葬儀への招待状を出した。これに応えて党の葬儀に参加した姉妹も兄弟も居なかった。

そもそも長女・宋靄齢(そうあいれい。ソンアイリン)は大分以前1973年10月にニューヨークの病院で死んでいた。死因は癌(原発部位不明)。享年85歳。1947年からは、夫・孔称凞(元国民党政府財務長官、1967年、ニユーヨーク市で死亡)が汚職を糾弾され、亡命に近い形でニューヨーク市郊外の自宅に隠遁したことに伴って移住。その後もニューヨークで過ごし中国大陸での激動や台湾への移動からは距離を置いていた。

 

c)ありがちな3姉妹パターン

兄弟姉妹の生まれ順は、その人の人となり、つまりパーソナリティを決定する有力な要因だと筆者は思う。勿論、日本で観察されるところをそのまま中国や欧米の家族に適応するわけには行くまいが、母親との関係の近さや遠さ、父親からの叱責や暴力の有無と言った要因が人々の人格の骨格というかマトリスクというか、そのようなものに影響を与えないはずはあるまい。

2〜3歳の差で新生児に母の胸ないし膝を追われる姉や兄は退行行為(「赤ちゃん返り」)で必死に抵抗するかも知れないが、いずれ「年上の子らしさ」を受け入れざるを得なくなり、年下の子が享受できるような「無限な母乳(ないし母の関心)」を喪失した自己愛性憤怒の感情を持たざるを得ないだろう。しかしこの種の憤怒は必ずしも意識化されず、父親を取り入れて「母と年下の子」の密着を冷たく嘲笑うと言う形で表現されるかも知れない。しかしそうした場合であっても、「上の子」が母を求める気持ちは時間につれて冷めるものではない(オーンスタイン,P.H.『一次的な自己の障害を有する患者の精神分析』(ロニングスタム、E.F.編、佐野信也監訳『自己愛の損傷』第7章)、金剛出版、2003)。このことを前提にして、宋靄齢、宋慶齢、宋美齢という、それぞれ4歳違いの姉妹について考えてみよう。

宋靄齢は父が、母・倪桂珍と結婚することによって実業家に転身する苦難を見ながら育った。アメリカでメソジスト派の牧師の資格を取り、堂々と帰国したはずなのに、教会のアメリカ人牧師たちから苦力(クーリー)並の扱いしかされなかった屈辱の口惜しさも耳にしながら育った。後年の宋靄齢が金銭に執着したのは実業家としての成功もおぼつかなかった頃の父親を取り入れていたからだと指摘される事が多いが、彼女は4歳まで独占してきた母の愛を新生児・宋慶齢以下の5児に譲ったのである。その点で筆者には宋靄齢が典型的な「長女病」の中にあったと推測している。

宋慶齢は姉とは4歳違いだが、年子の弟・宋子文が生まれたので母の胸と膝を独占できた期間は短かったろう。それもあってか、生真面目で控えめな少女になった。姉・宋靄齢と同じ14歳にアメリカ留学の機会を与えられるが、4歳下の妹で物怖じしない宋美齢が「私も」と騒ぐので、ジョージアの女子大への留学は妹と一緒になった。アメリカの友人たちの目についたのも賑やかな妹の方で、人々からは「年長で温和な姉さん」という印象を与えていた。その宋慶齢こそが宋家の連帯を瓦解させると共に宗家を人民革命の源泉という歴史的位置に押し上げた。宋慶齢という存在が無ければ、チャーリー宋に始まる一族は、いっとき栄えた浙江の買弁資本の一画に過ぎなかった。宋慶齢という一種奇跡的存在が居てこそ宋家は阿片に沈みつつあった中国の郭清(溜まった悪いものを払いのぞき清めること)の象徴になり得たのだ。

宋慶齢自身の覚醒は20歳のとき東京で、孫文の秘書の職を姉・宋靄齢から引き継ぐところから始まった。孫文の中に真に革新的な「あるべき中国」を感得し、その成就を助けることを使命とした。1925年3月12日、孫文が使命の途中で斃死したところから宋慶齢は孫文の死んだときの思想(国共合作)を冷凍し純化しつつ生き、蒋介石による国民党の右傾化を批判し続け、実家(宋靄齢、宋子文、宋美齢たち)からの呼びかけに断固として応じなかった。それはときに厳寒のモスクワで冬物の衣装を整えることさえままならない貧困に耐えることも余儀なくさせた。

孫文そのものは革命家の常としてその運動方針は様々に変化し、生き残っていたらその後も変化した可能性がある。しかし、宋慶齢の思想は一点に凝固し惑うことがなかった。勿論、孫文の三民主義と共産主義との隔差に悩んだことはあったはずだ。それもあってか中国共産党は彼女を副主席として仰ぎながらもゲスト(客分)の位置を維持し続けさせた。ようやく共産党員として迎え入れたのは彼女の死の2週間前である。

こうした、決して楽ではなかった一族との決別に耐えるには莫大な量の自己愛の備給が必要になる。宋慶齢を支えたこの自己愛備給を、筆者は宋慶齢の幼児期・青春期から前期成人期までに一貫して生じていた両親からの自己愛欠損とそれに基づく自己愛性憤怒に起因していたと考える。自己愛性憤怒(narcissistic rage)は人を嫉妬と抑うつの淵に沈ませることもあるが、新たな自己愛備給の対象を得ればそこから莫大なリビドー(生命エネルギー)の供給を得ることもある。

宋慶齢は東京で出会った孫文の中に「自分にだけ愛を注ぎ込む父」を見いだしたのだと思う。因みに父・宋嘉樹(チャーリー宋)は1863年2月生まれ、孫文は1866年11月12日生まれの3歳年下である(前稿に2人を同齢としたのは誤り)。この事件(次女と孫文の結婚)に、あれほどに宋嘉樹が傷ついたのは、次女が同志(と言うより,もう一人の自己(分身)、野心にして理想であったものを娘に奪われたからではないか。

厦門(アモイ)の医者だった孫文は、それに飽き足らず、母国を作り直すことに生涯を賭けた。その人物に共感して宋嘉樹は自己の全てを賭けた。しかしその自分を裏切ってまで孫文が必要としたのは、一人の女しかも自分の娘に過ぎなかった。逆に言うと、父親にとっては控えめでおとなしいだけの娘に過ぎないと見られていた宋慶齢は父親からその分身を奪うことによって「激怒という関心」を注がれることに成功した。

筆者はハインツ・コフートによって導入された自己愛性憤怒という心的メカニズムによって、この種の人間関係を説明できると考えている。そして、敢えて言えば、このような生き方をする女性には次女が多い気がする。

宋美齢は4歳年上の宋慶齢を評して、「その性(性格)頑固、親不孝にして、人に不仁」と罵っている。彼女からすれば父親は宋慶齢の結婚後、覇気を失い、別人のように憔悴して5年後に死んだという経緯を見ている。北京で死んだ孫文が南京市の中山廟に回葬された際の盛大な儀典に呼ばれたときも家族に和するでもなく、宋美齢が用意した屋敷やコックも使わないなど、差し伸べる手をことごとく払いのけられたと思ったろう。

宋美齢が生まれた頃、宋家は浙江財閥の一角を占め文字通りお嬢様として育った。しかし意外にも宋美齢は父親がメソジスト派の宣教師として上海に赴任してからの既述した屈辱を良く知っていて、滞米中も「宋王朝」全盛の頃も。これを話題にしてはアメリカ人たちの民族差別と傲慢を罵っていたという。しかし、その人もまたアメリカで果てた。(つづく)