斎藤先生との対話からみえてくる世界(箕輪華)

こんにちは、初めまして箕輪華と申します。
今回、斎藤先生との対話を通して多くの気づきがある中の一つを皆さまと共有させていただくことにしました。
よろしくお願いいたします。

定期的に先生と会うようになり4年ほど。CIAP・IFF相談室時代では、今よりも遠くから斎藤先生の講義に参加したり、グループでの指導をうけてきた。しかしながら相談室の閉室にともない、もう少し近い距離での指導者の存在が必要となった私は、あらためて家族機能研究所の戸をたたいた。最初はぎこちない雰囲気でスタート。

まず斎藤先生のオフィスに辿り着く前に私自身が臨床実践しているセッションについての資料作成が必要となる。この資料をもとに先生との対話が生成されていく。

最初に思ったことは、先生は私というカウンセラー、もっというと私という人間に対してどう思ってるのだろう?不信感の眼差しをむけられているのではないか?どうしよう、どうやって信用してもらおう。

斎藤先生の信用をどう獲得していくのかが当時の私にとって当面のテーマになっていたように思う。あれこれ自分の知識を披露してみたり、先生の話しにものすごい笑顔で頷いて見せたり、自分自身のトラウマ体験をはさんで先生の関心をひこうとしてみたり、その場で思いつくことはやったように思う。けれど、いくらやっても私が思う斎藤先生像から信用されている感覚は全く得られなかった。ご存知の人もそうでない人もいると思いますが、先生は色々なことを話される。極端に言うなら、前回yesと言ったことを今回はnoとなっていたりする。。。よく言うなら(?!)、肯定されながら、ゆさぶられるような感触。ゆさぶられたという認識がもてない日、何事もなく先生との対話が無事に終わった日は、自分の中にある否認や抑圧、すりかえ、とりこみetc. が機能しているのか、直面した方がいいであろう部分が認識できていない日だったのかもしれないと思う。

先生が私をどうみてるのか、今となっては私が自分自身に対して思っていたことが丸ごと投影されてるだけだったのかなと、あるいは、過去に遡った親子関係を先生との関係性の中でみていたのかなとも思うが、当時は資料を読み上げるだけで精一杯。不信感の払拭で精一杯。

途中で先生が話す、神話、日本史、世界史、時事ネタ、小説、映画、、、ありとあらゆる分野の話が資料を介してくりひろげられていく。最初はついていかれず、理解もできない。(今もそうだが。)なんとかその壮大な世界観にしがみついていく。毎回、私の脳は情報過多で消耗しきっていた。そのような回が繰り返される中、ある日、クライエント理解について、その背景にある時代、文化や歴史などをかさねあわせ、連想されながら想像していくと、話しの内容に奥行きがでてくることを体験した。衝撃的な感触だった。

このような衝撃的な体験をすると、自分の中にある先生像に信用される、されない、、、という自分の中のテーマが徐々に薄れていく感じがあった。(衝撃的な体験と信用問題と、どんな関連があるかは、まだわからないでいるが。)

自分自身のもつテーマに目を背けているつもりはないが、信用されてても、されてなくてもどちらでもいいのかな、、、といった思いがでてくる。両方の思いがコンテインされるような肯定感が生じていることもまた事実だった。

むろん、その感覚はそう長くは続かないため、継続的に先生と対話することが必要となってるように感じるし、いつかこのような肯定的な感覚が自分の中にも定着されていくといいなぁと思っている。

先生との対話は、資料を介して指導を受けてるつもりが、その時の自分自身の心のテーマが浮き彫りとなり、そこに働きかけられる。
なんともいえない不思議な時間である。

箕輪華