8月6日から考えていること その2

日本人は集団自殺を目論んだのか?

ジェフリー・レコード(渡辺惣樹 訳)『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』(草思社、2017)という本を読んだ。本書はJ・レコードの「米国陸軍戦略研究所レポート」と訳者の「解説」からなり、双方とも面白かった。「レポート」自体、私たちに知らされてきた米政府の見解と随分違うので驚かされるが、その後に置かれた訳者の解説に啓蒙された。

世の中には「正統派歴史家」による歴史と「修正史観」論者の見方の対立があり、前者から見ると後者は只の「陰謀論」なのだそうだ。で、このレポートは後者つまり陰謀史観に当たると言うのだが、これを作った人の肩書きは「米国空軍大学教官、上院軍事委員会専門委員」としてあり、作成時は2009年2月という「最近」である。

2009年から見れば近過去と言える1933-1945年に米国大統領の職に就いていたフランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)の戦争介入政策を、極力公平な視点からまとめたように見えるレポートが、何故「陰謀史観」になってしまうのか不思議に思った。

正統派歴史というのは大まかに言えば日本帝国主義の狂気的膨張策を自省することに徹している人々の考え方で、戦後に学童になった私たちが教科書などで教えられてきたものらしい。今考えると、私の頭の中には靄(もや)がかかっている部分、考えたくないから忘れてしまった部分があって、これを公的に指摘しようとすると陰謀史観のトンデモ論にされるという仕組みがあり、この仕組みを心得ないと「ちゃんとした」歴史学者とか歴史教師になれないと言うことだろう。

この仕組みのことなら私は良く知っている。外傷体験(トローマ trauma)の一部は言語活動つまり意識から駆除して薄暗い前意識のクローゼットに閉じ込め、果てには抑圧(Verdrängung、repression)して無意識の闇に封じる。こうして体験の健忘が成功し、つかの間の平安を楽しむことが出来るが、封じた意識は各種身体症状や解離、健忘、恐怖、強迫などの心的表現と化して顕現して来るので、精神科医の治療対象に、そして精神分析家の「解釈対象」になる(これについては2つの文献を挙げておく。#1フロイト、S.〈1915〉『無意識について』フロイト著作集、第6巻〈井村恒郎、小此木啓吾 訳〉、人文書院、1970. #2フロイト、S.〈1939〉『人間モーセと一神教』フロイト著作集、第11巻〈高橋義孝、生松敬三、他 訳〉、人文書院、1984. #2は「抑圧されたものの回帰」という心的現象について書かれている)。

歴史というのは国民とか民族という茫漠とした群衆を単位にしているので、私の手には負えない。でも、その多数を構成する個体としての私についてなら、太平洋戦争によって生じた外傷体験の後遺状態について多少なりとも意識化できるのではないか。現に今、その意識化の過程としてこれを書いている。

そもそもその体験は、1933年3月に既述のFDRが第32代USA大統領になった時から始まる日本人にとっての災禍の一部であったのではないか。そのように今の私は思うようになりつつある。

上の1933年を1931年9月18日(満州事変、柳条湖における関東軍による南満州鉄道爆破)とすべきだと言う人も居ると思うが、私はそう思わない。FDRが大統領になり、カリスマ的な人気を保って4期に渡って当選し続けたことが日本の悲惨を招いたと思う。

専門家でもない私が詳細を語る必要もないと思うので、私自身に見えているところをまとめると以下のようになる。

FDRは訳あって私的に「ある種の中国人たち」と親しみ、それが原因となって日本の超国大陸における膨張を抑止すべきものと考えた。ただし中国そのものへの領土的関心はなく、太平洋における日本との戦争など夢想もしなかった。彼は欧州における戦乱には関心を持っており、参戦したがっていたが、日本との戦争が実現するとは思っていなかった。

日本人の狂ったプライドなど、ちょっとした経済封鎖の強化と軍事力の顕示、それに移民受け入れの制限(これは今、共産中国に対してやっていることと同じ)でどうにでもなると彼は思っていた。

これとは別にUSA大統領としてのFDRには他のアメリカ大統領には見られない特徴があった。彼は第一期当選後直ちにソ連を国家として容認(民主主義国家としては最速)した容共主義者であり、彼の所謂ニューディール政策なるものも、民主主義というより自由主義であるアメリカに計画・統制経済を持ち込もうとする夢想的なものだった。水力発電などのインフラ投資を次々と立ち上げて失業者を減らし、各種の政府機関を新設して公務員を増やしたが、この時に入ってきた人材の多くはコミュニストで、中には財務省次官のハリー・D・ホワイトのような後になってコミンテルンのスパイであることが暴かれた人もいた。

彼らは全力を挙げて日本・関東軍の北進(ソ連軍との衝突)を妨げ南進(イギリス、オランダ植民地を攻撃してアジア人を解放するとともに石油資源を手に入れる)させようとした。そして関東軍に蒋介石軍との対戦をつづけさせることで、後日に説明する「FDRの私的事情」を刺戟し続け、ついには対日石油輸出の全面凍結という劇薬の投与に至った。日本を開戦に追い込んだ所謂ハル・ノート(コーデル・ハルは当時の国務長官)の実際の作者はアメリカ人のコミュニストで、蒋介石軍の軍事顧問を務めていたオーウェン・ラティモアからの公電(蒋介石の考えとしてラティモアが送電してきたもの)であったという(江崎道朗『日本は誰と戦ったのか』ワニブックス、2019)。

ホワイトハウスのコミュニストは日本のコミュニストとも繋がっていて、日本ではミヒャエル・ゾルゲ(表向きはナチ党員、実はソ連共産党員)をチーフとする工作員(スパイ)が活動していた。その1人が朝日新聞記者・尾崎秀実(「ほずみ」と読むそうだ)で、この人は近衛文麿首相の外交ブレーン(内閣嘱託)を演じることに成功しており、当然ながら日本政府の最高機密を漏らしながら、政府に向かっては日本軍の南進を主張し続けた。1945年日本が北進を断念したことをいち早くスターリンに告げたのはゾルゲで、この報を受けたスターリンは関東国に備えていた25万の兵士を対独戦に振り向け、これが対ドイツ戦勝利を決定づけたという。尾崎は死刑を執行されたが、同じく新聞記者出身で近衛首相のスポークスマン(内閣官房長)を務めた風見章は戦後も言論活動を活発に続け、「正統派歴史」の守護者として陰謀史観を排除し続けていた、とのこと。(茂木誠『「戦争と平和」の世界史、TAC、2020.』風間章の戦後発言については309頁参照)。

この本の第14章「昭和の軍部はなぜ暴走したのか?」には「ホントかよ!」みたいな記述というか「実在文書の露出」が多いのだが、中でも驚かされるのは敗戦の6ヶ月前、3年ぶりに参内した近衛前首相が天皇に手渡した「近衛上奏文」(木戸日記研究会編『木戸幸一関係文書』、東京大学出版会)なるものがあって、そこに「いわゆる(軍内の)右翼は国体(天皇制)の衣を着けたる共産主義者なり」という文章がある、と。ここで言う右翼とは軍部の中で統制派と呼ばれていた人々のこと、と言われてもため息が出るばかり。こうした実在の文書も、この意味を考えること自体が歴史修正主義の虚妄と言われるそうだ。

そういう敗戦後の日本歴史学とは何なのだと思うが、取りあえず私の頭の中ではっきりしてきたのは、真珠湾攻撃が狂気の妄動どころか、一定の方向を向いた大勢の人々(アメリカ政府公務員、ソ連軍情報部、蒋介石軍の人々、そして日本軍や日本政府の一部)のたゆまぬ努力がついに奏功した瞬間であったということである。

その方向はまるで製図の線のように正確に引かれていて、ただ終戦宣言に当たる玉音放送の時だけが、早すぎたらしい。なぜなら、これに慌てたソ連が日本に宣戦布告してきたのが敗戦宣言の翌日だったから。本来ならソ連が日本に宣戦布告して、米ソ同時に日本本土に侵攻し、あの年の12月まで終戦を赦さないことにしていたそうだ。それを決めたヤルタ会談(1945年2月5日からの1週間)については後で触れる。

日本の職業軍人の中に巣くっていたコミンテルン派は本土決戦を主張してソ連による帝都(東京)解放を狙い、早々の和平・降伏を希望する日本側の努力を阻んでいた。彼らの思うとおりに事が進めば、開戦時に7200万人以上居た日本人は半数以下に減り、生き残った女性は人種改良の目的で異国人との間に子を生むことになっていただろう。それがFDRの本音だった。彼はそういう人で、ソシオ/サイコパスと呼んで構わないと思う。

証拠? とりあえず、ジョン・W・ダワー〈斎藤元一訳〉『容赦なき戦争』(平凡社ライブラリー、2001)からの引用はどうだろう。以下は上記文献の205頁、左端から3行目に始まる興味深い文章である。

ローズベルト(ルーズベルト)は、彼らが敗北を喫したあと、他の人種との結婚をあらゆる可能な手段を用いて奨励すべきである、と私的に示唆したことがあった』

「私的に示唆したことがあった」というところがちょっと痛いが、この本(副題は「太平洋戦争における人種差別」)や次回以後に紹介する別の本にはこれを補って余りあるFDRのサディスティックな反日言動が紹介されている。

精密図面のように描かれた日本殲滅計画が最終段階にまで行かなかったについては、そのFDRが死んだことの影響が大きい。後を継いだトルーマン大統領は何も知らされていなかったが、それだけにソ連が東欧やドイツを次々に飲み込んで行くのを見て危険を感じた。対日戦を早く止めて、ソ連に対応せねば、と思った。その焦りの中で8月の6日と7日、ヒロシマとナガサキに出来たての原爆を落とした。

こうした事情があったにせよ、ソ連と通じた国家社会主義の軍人たちに囲まれながらの玉音放送には勇気が要ったはずだ。あの人が単独で断行出来たのだろうか?

とにかく日本の現代史には嘘や隠蔽が多すぎて、疑問符だらけだ。妄想なら妄想でいいから、当時の指導者やマスコミに関する書類や文献や記憶を並べて我々に判断させろ。それがあの時死んでいたはずの日本国民への償いだろう。

我々にとって抑圧されたものとは何か、そしてそれはどのような歪曲を経て回帰しているかについて、考えてみようと言うのが本稿の目的なのだが、その経緯を説明しようとするだけで泥沼に入っている。可能な限り、結論まで辿りたい。

(続稿あり)