日々の小さな会話 ーその1
「戦慄のことば」
〔会話〕
30代後半の女性。1歳前後の幼児の母で、夫も通院中。主訴は夫婦間葛藤。結婚して2年目。彼女はときどき絶望感に襲われ、その都度、目の前に居る夫に「このまえ、あなた私に向かってキチガイって言ったわよね」。妻の言葉に慄然とする夫。え!さっきまであんなに温和で、寛いでいたのに!急速に固まってゆく妻の顔の変貌も怖い。夫は通院先の医師 (つまり私) の禁止命令にもかかわらず、思わず叫んでしまう。「オマエやっぱりキチガイ!」。
〔解説〕
夫はこれを過去のトラウマの再現(解離性フラッシュバック)と考えている。彼は仕事上、医療に詳しい。私は解離が生じたとは思っていない。おそらく仮面うつ病の人の感情爆発であろうと考えていて、そのように説明し処方をした。
この女性はときどき絶望感に襲われる。この感情の波の端が意識に届いた瞬間「いつもの防衛」に入るようだ。それに2パターンがあって、1人だけなら飲酒。目の前に夫が居れば夫への憤怒(rage)の放散になる。この憤怒は長い時間をかけた恨み〈resentment、日本ではルサンチマンと仏語風カタカナで使われる)の蓄積が破れたもの。憤怒放散そのものが必要なので中身は何でも良い。で、最近は直近の傷つき体験である精神科受診とその際の夫の言葉が繰り返し使われている。
飲酒は効果的なようで、幸い赤ちゃんは大切にされている。しかし抑うつ気分の出現に歯止めがかからなければ、いずれ赤ちゃん対策が必要になるだろう。というか、赤ちゃんを糸口にアルコール問題に入れないかな、と考えている。
レイジ、フュアリィ(fury)などの激怒系の単語がむやみに多いのは英語の特徴だと思う。で、私は怒りという日本語が聞こえるたびに英語の何に当たるかなと考える。と言うのも、レイジ、フュアリィ、アンガー(anger)などはいずれも、うつ気分を突破する力強さがあるからだ。生後1年未満の乳児たちはこれらだけを頼りに意思疎通するしかないが、成人の場合、あまりにも生々しい怒り表現は異様だ。
精神・心理臨床の場で成人の不思議な怒りに接した場合、単なる未熟さ、とか感情失禁で片付けてしまうのは勿体ない。時に見られる政治的でいやらしい怒り、例えば indignation(正義の怒り)、lambast(こき下ろし的批判)、reprimand(目上から目下への叱責)などを除けば、怒り・憤怒系の表現は抗うつ効果のせいで常習的に使われる可能性がある。要約すれば、怒りはうつに効く。アルコールやコカインのように。抑うつ気分は身体の痛みや緊張になったり、怒りに転換されたりすることが多い。うつがうつの形で顕れるのはむしろ希と思うくらいで丁度良い。