「母娘もの」という括り

「母娘(ははとむすめ)もの」と私が勝手に名付けた括りがある。イングリット・バーグマンが出ていた映画『秋のソナタ』が、この手の作品の典型で、母と娘のこじれきった関係を、これでもかというほど綿密に重厚に描く。近藤ようこのコミック『アカシアの道』もこれ。ちょっと無理と思われるかも知れないが是枝裕和監督の映画『誰も知らない』もここに入る。

このジャンルに入る母親は少なくともある時期、娘より遙かに高く翔んでいて、『秋のソナタ』のバーグマンの役は世界中を旅するピアニストだった。一方、母を仰ぎ見る娘の方は鈍くさくて肥っていたりする。

『誰も知らない』という映画でYOUが演じるシングル母はホステスをしていて、関心の対象が子どもたちにない。あげく客に誘われて、12歳の息子たち4人(父親がそれぞれ違うらしい)を置き去りにする。出生届も住民票もない子どもたちは社会福祉の網の目からもこぼれてしまって、子どもたちは自力で生き残りを図るという話(1988年の日本で実際に生じた実際の事件に基づく)。この映画は長男役の少年・柳楽優弥がカンヌ映画祭の最優秀主演男優賞を取って注目されたのだが、私にとってこの映画はYOU演じる「居ない母」を、2人の学童期の娘がどうイントロジェクト(自己の中に取り入れること)するかというスリリングな物語なので「母娘もの」に分類されるのだ。娘が2人居れば母という現実の受け入れ方も違う。その現実を従順に受け入れようとする娘と、それに挑戦する娘。ひとり娘が育つうちに両方とも演じることもある。

『誰も知らない』の場合、上の娘は母とは対照的なしっかり者で、あの母の存在を批判的に受け入れていると言えるかも知れない。下の娘は幼すぎて、母に挑戦する素振りさえ出来ないが、母が戻ってくる前に餓死した。これこそ究極の抗議だろう。

母娘ものの場合、話しは通常、どんくさくて恨みがましい長女の視点から語られるものなので、それを聞かされる視聴者には「我慢の覚悟」が必要になる。

私は、「さいとうクリニック」(Tel.03-5476-6550)のデイナイトケアで、2時間を越えるグループ・ミーティングを毎日開いている。そこで聞く話の少なくとも半分は、母娘もので、それが「母に従順な肥った娘」の視点や、「母に挑戦的な非行・入れ墨・手首切り娘」の視点から話されるのを聞く。当然、母親の視点から、これらの娘について語られるのを聞くこともある。

齊藤學