8月6日から考えていること その1
4歳の記憶
我々の国は1945年の8月15日に連合軍に無条件降伏した。いわゆる「玉音放送(昭和天皇からのラジオを介した国民への告知)」なる「敗戦のお報せ」があった。私は1941年生まれだから4歳になっていて、既に海馬体の細胞構築も終わっていた時期だから、当時からの記憶は無理に辿ろうとすれば、あやふやながら繋がらせることが出来る。
当時の私が身をおいていたのは群馬県沼田市。ここはJRの駅前が町の中心ではなく、そこから長い坂を上り詰めていた処に市街があって、駅前は閑散としていた。
その駅前に母の兄(伯父)が所有する製材所の工場があり、その周辺に住んでいた母の弟(叔父)の家に母と共に身を寄せていた。年の離れた姉たち2人は、学校に通う都合もあってか、坂上の街にあった別の縁者に引き取られていて、養女になる話しまで進んでいたようだ。
そういうわけで75年前の8月15日に、4歳の私は沼田駅前の伯父の家の広間にいた。大人たち10人足らずがラジオの前に正座し、頭を垂れていて中の何人かは泣いていた。ラジオからの音声はガーガーと雑音がうるさくて殆ど聞こえない。ながら、今まで聞いたことのない不思議な言い回しの言葉の「タエガターキオ、タエ(耐え難きを耐え)」というところだけは聞けたと思っている。後になって入ってきた情報で上書きされた記憶の可能性もあるが。何せ、この前後に何をしていたかの記憶が断片としてしか残っていない。
この記憶の少し前に置かれたかなり明瞭な記憶があって、そこは東京の屋内の薄暗がり。夜空に四方八方から放射状に光が伸びていて、幾つかは上空で交差している。そこから不連続に土の匂いのする暗い床下に降りていく記憶で一種に降りたはずの大人の気配がないから1人だけ先に下ろされたかも知れない。目の高さに茶筒のようなものがあって、それを大人の男の足が蹴り、筒が大きな音を立てて転げ、中の炒り豆が転げ出した・その光景に被せるように鋭い女の叱声が聞こえて、これが頭上の床から聞こえた。これが母の声で足は父の足だとすると、姉たち二人は既に群馬県に移っていたのかも知れない。
これが4歳だと思うのは、この新型コロナの夏に読んだ何冊もの同系統の本のどこかに1945年3月10日の東京大空襲の記述があって、それがこの記憶のかけらの原料かも知れないと思ったからだ。私が生まれたのは1941年2月なので、4歳を過ぎたばかり。
その後に聞いた話と辻褄が合わないのは、その場に父らしき人が居たことで、私自身の別の記憶では父は市ヶ谷の大本営(?)とかに画工として徴用されていて、図面作りをさせられていた。そして、私たちの疎開から1年くらいして一緒になった、というもので、だとするとここに書いた夜空の記憶は44年頃のものだろうか。
ウィキペディアで確かめるとB29による東京区部への焼夷弾爆撃は1944年11月に始まって106回に及んだというので、45年3月より5ヶ月ばかり早かった可能性もある。ただ所謂「東京大空襲」というのは45年3月10日夜間空襲を指し、この一晩で10万人以上の都民が焼き殺され、煮殺された。煮られたというのは川に逃げた人々も川の水が熱せられ熱湯の中で死んだからだ。
4歳児の私はあの大殺戮の晩の生き残りだったのかも知れない、これは大変なことだ。とは思うものの、恐怖の記憶がない、まったくない。カケラになった記憶だけがある。
5歳からの私、荒廃した中央区八丁堀の瓦礫、馬車の落とす馬糞、木炭自動車の中を下駄で走り回っていた頃の自分は時間の流れに沿って思い出せる。私はアメリカ兵の尻をめがけて走っていたのだ、「ギブミー、チョコレート」と叫びながら。
時間の流れで思い出したが、八丁堀は堀の町で泥色の水があっちにもこっちにも流れていた。例えば、今は暗渠になって車が走っている歌舞伎座の左脇の道も、あの頃は泥水が流れていて、京橋、桜橋、八丁堀などと繋がっていたと思う。その水には毎日のように蝋燭(ろうそく)色の土左衛門が浮かんでいた。上を向いたり、下を向いたりして。それを見て騒ぐ人の群れも見かけなかった気がする。私は5歳にして遺体を見飽きてしまっていたわけだ。そんなこと今まで気づきもしなかった。
この年になっても毎日、患者さんたちの近親姦や暴力被害の幼児期記憶を聞いている。こうした話を聞くたびに、私の頭にはこの記憶が蘇るのだが、それ以上のことを知りたくもなくて、父にも母にも「あの頃の話」を尋ねないでいるうちに二人とも逝ってしまった。この辺でそろそろまとめて置かなくてはいけない、と何故かこの夏思った。あの頃やその前の鮮明な記憶はまだいくつかあるのだが、今は語りたくない。
取りあえず、あの大空襲やヒロシマとナガサキはなぜ起こってしまったのかを確かめようとしたら大仕事に入ってしまった。これから何回かに分けて書いてみるが、所詮は素人だから変な思い込みもあるだろう。しかし、一挙に読んだ数冊の本の中には心底から私を驚かせるものが幾つもあり、そこから、あの騒ぎはなんだったのかを私なりに再構成してみようと考えた。日本放送協会や朝日毎日等新聞の情報バイアスを避けながら。
ウィキペディアは、私の都合次第で随時使わせていただいています。ご要請頂いている寄付はします。その価値は充分ありますから。それを除いて今日(9月7日)までに参考にした本を並べておきます。増えそうです。
〈文献〉(読んだ順)
・ジョン・W・ダワー(斎藤元一訳)『容赦なき戦争、太平洋戦争における人種差別』平凡社ライブラリー、2001.
・江崎道朗『日本は誰と戦ったのか、コミンテルンの秘密工作を追求するアメリカ』ワニブックスPLUS文庫、2019.
・ジェフリー・レコード(渡辺惣樹訳)『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか、「米国陸軍戦略研究所レポート」から読み解く日米開戦』草思社文庫、2017.
・ハミルトン・フィッシュ(渡辺惣樹訳)『ルーズベルトの開戦責任』草思社文庫、2017.
・茂木誠『「米中激突」の地政学』WAC、2020
・茂木誠『戦争と平和の世界史』TAC出版、2019.
・須藤眞志『ハル・ノートを書いた男、日米開戦外交と「雪」作戦』、文春新書、1999.
(続稿あり)