なぜ、この映画? 「ジェーン・エア」「嵐が丘」その2
ジェーン・エアの純潔
「ジェーン・エア」の主題はヒロインの純潔(purity, innocence, chastity, virginity)であると思います。書き連ねた英語の多様性にみるとおり、純潔なるものの意味は多様です。第2次大戦後の1950年代から60年代にかけて、我が国、文部省(当時)は女子学生に限って、純潔教育なるものを施すことを定めていました。この場合の純潔は無垢(innocent)であれ、純正(pure)であれということではなく、貞操(chaste)を守れ、もっとはっきり言えば処女(virgin)でいろ、ということでしょう。放っておくとここまで言いだしかねないのが、教育行政なのです。
この映画のヒロインはもちろん処女です(そのことはあまりにも当然とみなされていたのか映画の中では触れられていない)が、ここでいうピュアリティは、それに留まりません。家庭教師という職業の悪口を言うミス・イングラムの言葉に憤激し、その表情を隠そうとしませんし、雇用主エドワード・ロチェスターにも毅然としています。自分の罪と汚れを自覚した者の持つオドオドしたところがないので、傲慢にさえ見えます。フランス語にはinnocent angel(イノサン・アンジェル)という言い方がありますが、「天使気取りの阿呆」という意味で、わかりきった正論を吐く若い者を軽蔑する言葉です。アメリカ英語でも黒人差別を否定する白人を指して、黒人がこの言葉を使うことがあります。「差別される身の痛みを知りもしないで同情する間抜け」という意味だから厳しい。
実際、イノセンスであることは危うい。人として生きる以上、世間の中で人は塵や埃にまみれざるを得ないからです。実際、ジェーン・エアは「何も悪いことをしていない」にもかかわらず、狂女(きょうじょ)と化した雇い主の妻を火の中に飛び込んで自殺するところまで追い詰めてしまうのです。
ジェーン・エアと「屋根裏の狂女」、接点のない二人の女の明暗を決するのが一人の煮え切らない男の思い。「恋という名の気の迷い」なのですから、ビクトリア時代のイギリス女性たちはつらい。恋と結婚を除けば、ヒロインとほぼ同じ生活を生きた筆者、シャーロット・ブロンテの好意はジェーンに一途に向かうに決まっています。しかし狂女にしても狂う理由はあったでしょう。このジャマイカ生まれの女性はなぜ、荒涼として寒いヨークシャーまで来て冷たい屋敷の中で狂わなければならなかったのか?
この小説は「屋根裏の狂女」という概念を提示したところが凄いのだと私は思います。「屋根裏の狂女」は「クローゼットの中の骸骨」より怖い。だって生きていますから。夜になると火をつけてまわるのですから。サンドラ・ギルバート他著の「屋根裏の狂女」(1986年刊)を今、アマゾンに発注したところです。読んで面白かったらご報告します。
ヒースクリフの憎悪
「嵐が丘」のヒースクリフはなぜあんなに怒っているのでしょう。いや怒っているのではありません。あれは憎んでいるのです。怒り(anger)と憎しみ(hatred)とは似て非なるものというよりベクトルが正反対を向いている概念なのです。
怒りの基本は欲求不満であり、自分の不満足に注意を向けてくれない他者への訴えです。わかりやすく言えば赤ちゃんのオギャーです。怒っている人は他者とコミュニケーションを取ろうとしているのです。憎しみはこれと違って、他者を滅ぼそうとする欲求です。他者そのものを絶滅できないのなら、せめて関係を絶とうというものです。
純潔と同じく、怒りにもangerの他に、rage, fury, cross, indignation などの種類があります。外国人の私が主として目から学んだ英語感覚ですので誤解があるかも知れませんが、rageというと引き籠もりの思春期青年の暴力噴出のような若さを感じますし、furyには中年アル中男の女房への罵り声が重なります。Crossはそこへ行くと地面に寝転がって泣く幼児のカンシャク(temper tantrum)を連想してしまう。一方、indignation とくると粛然とした感じにとらわれるのは、この語が「正義の怒り」という厄介なものを指しているからだと思います。東京に引っ越してきて住み着く人はたいてい「ゴミ婆(ババ)」に取り憑かれます。ゴミババは私の造語で、ゴミ捨て場に張り付いて近隣住民のゴミ分別の正否を監視し、それが間違えている人を上から目線で叱り飛ばす比較的高齢の男女のことです。ババとはいっても女性とは限らない。ただ、女性の方が無自覚に「正義」を振りかざしたがるように思える(偏見 prejudice でしょうか?)ので、私の語感ではジジよりババになります。彼らの高飛車の背景には「我こそ正義」という「おかみ(御上)」の側に立つ者の優越感が腐臭のように漂います。Rageやfuryを熱い怒りとすると、indignationは冷たい怒りです。
憎しみにも熱いものがないとは言いませんが、どちらかというと荒涼たる寒さが憎しみの本質ではないでしょうか。キャサリンが自分について語る言葉を半分だけ聞いて彼女が自分を「無一文の捨て子」という出自のために捨てたと誤解したヒースクリフは嵐が丘に建つアーンショウ家の屋敷を衝動的に飛び出します。「おのれキャサリンめ、俺のホントの怖さを思い知らせてやる」というヒースクリフの激情には怒りの熱さも感じられます。しかしその後インド(?)に渡って数年にわたる艱難辛苦に耐え、しこたま金を儲けて帰英するとなると、熱血や激情だけではすまされません。そこには恨み(grudge 怨恨やmalice悪意)を伴う憤激(resentment)が長く尾を引き、復讐(revenge)を絶えず考える日々が続いたはずです。逆に言えば、こうした強い悪意なしにはヒースクリフの成功はなかったということです。
この種の悪意は満足のいく復讐の達成まで続きますが、その後には虚無の荒涼しか残りません。リントン家でもアーンショウ家でも主立った人々は皆、ヒースクリフの毒気にあてられたかのように死んでいきますが、後に残されたヒースクリフの絶望も深まるばかり。彼はキャサリンの面影を求めて彼女の墓を暴くことまでしてしまいます。その後のヒースクリフは惨めでした。彼には目にする全て、聞こえる全て、触る全てがキャサリンの影でした。その影に包まれたヒースクリフは食べることも、眠ることもできなくなり、キャサリンの影に飲み込まれてしまうのです。
この物語におけるわずかな慰めは、無知文盲なヒースクリフに対する初代キャサリンの教育であり、文化の伝達です。まるで、家庭教師としては成功しなかったエミリィ・ブロンテの願望を観るように救われる場面です。そしてまたこれが、アーンショウ家の最後の嫡男であり、ヒースクリフによって下僕として追い使われたヘイトン・アーンショウの娘・キャサリンの教育です。ヘイトンは自分の名が嵐が丘の屋敷のファサード(正面)に刻印されていることを知りません。文字が読めないので、その家が自分のものということも知らないでいたのです。このヘイトンに文字を教え、彼と共に嵐が丘を去る娘・キャサリンを観るとき、観客は作者エミリィの優しい配慮に救われるのです。
*ジェーン・エア(シャーロット・ブロンテ)〔2011〕
(監督)C.J.フクナガ (主演)ミア・ワシコウスカ
*嵐が丘(エミリー・ブロンテ)〔1992〕
(監督)ピーター・コズミンスキー (主演)ジュリエット・ビノシュ、レイフ・ファインズ