無意識の臍2(田中淳一)
前回は、斎藤先生のおっしゃった「無意識の臍」という言葉から、S.フロイトの夢の構造の話をした。
無意識の臍とは何かといえば、口唇へ、肛門へ、性器へとエネルギーを送る通路の事である。ちょうど胎児が母親から栄養をお臍から送られて来るイメージと重なる。エネルギーとはここではリビドーと言ってもいい。それは無意識に行われていて、それはリビドー発達論的な構造を持っている。それは我々の意識とは関係なく、無機質な構造を持っていて、この構造が反復されているのである。
その反復は夢の中で表れてくる。それをフロイトは『夢判断』の中で「夢の臍」と言った。
人がセラピーに来るのは、自分の人生に行き詰った時である。
症状があって生活が立ち行かない、これからどうしていいかわからない、生きている意味が分からない、自分は生きていていいのか、などの悩みを持つが、このような人生の危機が訪れた時に、我々の夢を見て、それを話すことで、人生の難局を乗り切ろうとする。
自尊心というのは、自分が生きていて当然だと思うという意だが、斎藤先生はよく「根拠のない自信をもちなさい」とをおっしゃる。自分が生きていていい、この人生でいいのだという肯定感に根拠はいらないということだとおもう。AC(アダルトチルドレン)とは、親から虐待を受けて、それが欠けてしまった人たちである。
また、斎藤先生は、「自分はクライアントを助けることは出来ない無力である。できるとしたらその人の中にある回復する力に気が付いてもらうことだ。」ということもおっしゃる。その人が今まで、苦しい人生を切り抜けてきた力がその人を回復させる力になるということだが、我々には、自分の困難を切り抜けるための力を潜在的に備えている。
人はどこにその根源的な力を持っているのか。分析的に言うのであれば、母親の暖かい腕の中で与えられた母乳と暖かい視線の中で感じた万能感と、自分産んだ母親に精子を授けた父親の言葉である。そこで「お前は価値のある存在である」という根源的な力を与えられる。これは人間には普遍的に備わっているものである。
戦後、戦争孤児(赤ん坊)を劣悪な環境から、病院に入れて、身体をきれいにして、食事も与えて、清潔なベッドにも寝かせても、次々に赤ん坊が死んでいった。そこで看護師たちが赤ん坊を抱き上げ、よしよししてあげることで、赤ん坊の死亡率が下がったという有名な話があるが、なぜ生き残ることが出来たかと言えば、看護師たちの肌のぬくもりと暖かい視線声掛けで赤ん坊たちは自分が生きる価値があると認定されたと思い生き残ることが出来た。
ACは、幼少期に健全な自己愛が傷つけられ、自尊心が育たなかった人のことをいうが、人間として今まで生存してこられたということは、記憶はされていないが、母から抱きかかえられ、乳を与えられ、父親からお前は価値があると言われ、生きる万能感を感じることが出来たという事実を物語っている。
その記憶は失われているが、万人が記憶の底に持っている万能感なのである。それを人生の危機の際に、夢を見ることで、自分が万能であった記憶を思い出させ、乗り切らせようとする。それは単なる記憶ではなくて、構造である。夢の材料(その日の何気ない日常の出来事)を使って繰り返し反復される構造として現れる。
しかし、夢はただ夢主が夢を見ました、という一人称で終わる場合は、力を発揮しない。人に語ること、対話することによって、力を解放する。
夢の構造として、自分が夢の登場人物になっている場合と、夢を外から見ている自分と二つのパターンが見られる。夢の特性として、自分を客観視し、外在化する。外在化する時に、自分はこうであった、自分は万能であったと悟るのである。その他者の視点は、父の視点なのである。この夢の構造と同じ、話す人と聞く人という二者の対話(言葉を使う)をして、転移関係(無意識の親子関係)を作ることで、自分の万能感、つまり無意識の臍が賦活されるのである。
このような万能感に満たされたときに、それは時として、テレパシーや超能力といったオカルト的な言説として現れる。
ここでよい例として、斎藤先生について書かれた新書、インベカヲリ★氏の『伴走者は落ち着かない -精神科医斎藤学と治っても通いたい患者たち-』(ライフサイエンス出版)を挙げたいと思う。
この本には、超能力やテレパシー、予言などの言葉が頻繁に出てくる。
「取材を始めてすぐに、実は私のほうが、斎藤先生におびき寄せられたのではないか。」(p.267)
「斎藤先生の圧倒的な宇宙を感じた。・・・先生の大宇宙の全容は分からないし、理解できるはずもない。あの面妖さは、神がかっているとしか言えない。」(p.226)
「そんな椎名の未来は、何と面接の中ですでに予言されていたらしい。」(p.195)
「私は斎藤から不思議な力を感じ、実は自分の方が斎藤におびき寄せられて取材をすることになったのではないかという、ありえるはずもない疑念に駆られた。あの感覚は、もしかすると私だけでなく、斎藤に関わった多くの人が感じるものなのかもしれない。」(p.53)
フロイトもこのような超能力やオカルトのことを書いている。(「夢とテレパシー」「夢と神秘主義」)フロイト自身は、このような不思議な現象があるが、それがあるかどうかは自分には分からないと書いてある。
しかしここでは、その存在があるかどうかではなく、その万能感である。その万能感は我々が幼少期に無意識の中の欲望として抱えているもので、抑圧されていたものである。それを感じる時にテレパシーや超能力として感じられるのである。
その万能感とは、特に、エディプスコンプレックスに関わる。エディプスコンプレックスとは、簡単に言うと、母親と結ばれたい欲望と、その欲望故に、父親が自分のペニスを切り落とすことへの恐怖をいうのだが、母親と結ばれたいというのは、父の座を奪いたいということでもある。父への同一化とは、自分を生んだ父の欲望を、自分の欲望へと変え、自分を生む力を父親から贈与させるという意味を持っている。父親が、自分が生きていることを欲している視点を自分に取り込み、自分が生きていることを欲する(自尊心)ようになる。このような他者(父)の視線の取り込みがないと、自分は自分である、自分は自分として生きていていいという感情は生まれない。
そしてこの父との同一化は、言語によってなされる。自分を言葉によって創造したという感覚が我々の幼年期のどこかに刻まれていて、それが不死や万能感、超能力といった力として感じられるのである。言語を獲得した時の万能感。それは夢の中で、例えば、空を飛ぶ夢として現れる(類型夢)。それは、言葉という空を飛んで、空からすべてを見て、知って、動かすことが出来るという万能感を表している。エディプスコンプレックスという時、真に大事なことは父との同一化することで自分の生きていることを自分で欲することできるようになるということである。
となると、先に書いた、斎藤先生についての超能力の意味も分かってくるだろう。インベ氏が書く、斎藤先生の超能力は、患者やインベ氏の中に無意識に刻まれていた、万能感が鏡のように反射しているものである。この万能感を感じることで、患者は自分の人生の難局を乗り切っていくことが出来る。大事なのはそれが言語によってなされるということである。
ここで、「セラピーは何をするのか」という、技法論を超えた、目的が分かる。それは、幼児期の無意識の欲望が成就である。我々は、無意識に、リビドー発達論的な構造(口唇期、肛門期、エディプス期、性器期)を反復している。これを強迫反復というが、これはなにも、ACがよくやってしまう、自分を傷つけるようなマイナスな人間関係や、自身の行動だけではない。自分の人生の難局を切り抜ける時もこの反復を使うのである。であれば、喪失体験から抜けられず、自分の力を信じられなくなったクライアントに、セラピスト側の自己愛の反射を送りこむことで、「なにかセラピストと話していると上手くいくような気がする。」というクライアントの幼少期に抑圧された欲望の成就、つまりエディプス期の万能感を賦活させることではないだろうか。
斎藤先生はある学会の際、筆者の演題発表後にこうおっしゃった。
「田中君、何物にも傷つかない、大きな自己愛を持ちなさい。自分の行ったことに、反省しない、後悔しない、巨大なナルシシズムをもちなさい。」
参考文献:
S.フロイト、『夢判断』、高橋義孝訳、新潮文庫、1969年
S.フロイト、『続精神分析入門』「31講 夢と神秘主義」小沢平作訳、フロイド選集3、日本教文社、1969年
S.フロイト、『夢とテレパシー』高田淑訳、フロイト著作集11、人文書院、1984年
新宮一成、『夢分析』、岩波新書、2000年
新宮一成、『夢と構造』、弘文堂、1988年
新宮一成編、『メディアと無意識』、弘文堂、2007年
田中淳一
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