無意識の臍(田中淳一)
斎藤先生はある時の講演で、こんなようなことをおっしゃっていた。
「セラピストはクライアントの無意識の臍(へそ)を見つけなければいけない。無意識の臍が分かったときに、ああそうか、そういうことだったのか、というセラピストの快感がある。」
斎藤先生はこのような、分かりそうで分からないメタファーをよく使われる。
無意識の臍とは何か?ここでは、自分なりの斎藤先生の言葉の解釈をしてみたいと思う。
これは、おそらく、S.フロイトの『夢判断』第Ⅶ章「夢事象の心理学」のA「夢を忘れると言こと」の中に出てくる「夢の臍」からきていると思われる。「夢の臍」とは何かというと、「夢を解釈してもどうしても解けないたくさんの思想の結び玉のようなもの」と書かれている。(『夢判断』下、新潮文庫p.279)
フロイトの「夢は無意識への王道である」という言葉から、“無意識”とは“夢”と置き換えていいだろう。
たくさんの思想の結び目のようなものとはいったい何だろうか?これについても斎藤先生はある日のスーパーヴィジョンの際にこうおっしゃった。
「クライアントが転移してくるものはなにか、それを分析発達論的にみないと、何を転移しているかわからないでしょ?」
クライアントが無意識にセラピストと結ぶその転移関係の中身は、大体は親子関係の反復なのだが、それだけでなく、その親子関係を分析発達論的に、口唇期、肛門期、エディプス期、性器期のどれなのかを特定しなさい、ということだと思う。
口唇期であれば、愛の対象としてセラピストを食い尽くそうとしているか。肛門期であれば、憎しみの対象として溜まったものを吐き出そうとしているのか、エディプス期であれば、クライアントが持っていない物を持っている羨望のライバルとして乗り越えようとしているのか、どのような対象として自分が、クライアントの転移を受けているか自覚しないと転移を扱えませんよ、ということだと思う。
ここで、斎藤先生の前後でおっしゃった、夢と転移とどう関係があるのかということだと思うが、夢も転移も無意識でおこることである。特に、夢というのは構造を持っていて、その構造の中で、私たちの意志とは関係なく、あらわれる。その構造とは、分析的に言えば、分析的発達論的な構造なのである。われわれは自分の意志とは関係なく、口唇期、肛門期、エディプス期、性器期を反復していて、それはクライアントが無意識にセラピストとの関係の中で生じる転移も同じ構造を持っている。つまり夢と同じ構造を持っているのである。(新宮一成『夢と構造』、弘文堂)
このように人間の無意識の構造として捉えたのがフロイトだった。さらには無意識をシニファイアン(意味するもの、能記、)の構造体として捉え、フロイトへ帰れと言ったJ.ラカンだった。
※言語学者ソシュールが、言葉をシニフィアン(意味するもの、能記、形)と、シニフィエ(意味されるもの、所記、その意味)に分けて考えた。夢を見た人なら誰でもわかるが、夢に出てくるものが、どんどん形が変化(置き換え)したり、視点がどんどん移動したり、複数のものが一つに圧縮されたり、あるものを象徴的に表したりする。夢に出てくるものは単なる形で、それにはそれほど意味がなく、その奥に直接表すことが出来ない内容があると考えたのがフロイトで、それをソシュールの言語学を借りて、夢の形(構造)と内容があると言い直したのがJ・ラカンである。
斎藤先生の言葉をたどっていくと、「無意識の臍」という言葉から分かってくることは、話される表面的な言葉の奥に、無意識の構造があり、それは人間の意志とは関係なく、われわれの無意識に流れているものである。それは夢であったり、人間同士の転移関係の中で表されている。その無意識はわたしたちの主観の感情とはかかわりなく、内在的な形成力を備えている。この事実を知った時、なにか人間の深淵に潜む謎を解く鍵がみつかったような驚きと興奮があった。
さらに推論を進めると、セラピスト・クラアイント関係性に、(そういうものがあるか分からないが、)二人が“陽性”の無意識の構造の波(グルーブ)に入っていれば、自然とクライアントは“よくなる”のではないか、という楽観的な考え方が沸いてくるのである。
“よくなる”とは、症状が取り除かれるということもあるが、ここでは分析的に「幼少期(言葉を覚える以前)の願望の達成」ということと考えたい。
つまり、エディプス的(言葉を獲得した時)万能感に満たされることだと思うのだが、これはセラピスト側の万能感とクライアントの万能感が交差した時に、力を発揮し、クライアントを行動に導き、回復へ向かわせるものである。それは心理技法を超えて、一種、“テレパシー”や“超能力”といった、人知を超えたものとして現れる。よく「知らない間によくなっていました」「どうしてよくなったよく分かりません」というクラアイントがいうのを聞くが、それはこういうことと関係していると思う。
これをもっと短絡的に言えば、人と出会って会話をすれば変化が起こるのではないかという推測である。しかしその前にまず、セラピスト側の巨大な自己愛(ナルシシズム)がなければならないのだが。
(このことは次回、機会があれば、斎藤先生について書かれた新書(『伴走者は落ち着けない』インベカヲリ★著)に明確に表れているので、紹介したいと思う。)
そういえば、斎藤先生はこう言うことをおっしゃっていた。「人は心理技法でよくなるのではない。その人に対して、どうしてこうなっちゃったのかな~と興味を持って話を聞いて、会話をすれば、自然と良くなっていくんだよ。」
斎藤先生の話は言葉の大海原である。斎藤先生のなにげない話には、掘れば掘るほどたくさんのネタが詰まっている。それが講演では、テーマから、精神分析、文学、宗教、ギリシア神話、人類学、人類の進化、霊長類学、映画、サブカルまで縦横無尽に語られ、こちらはその言葉の大海原に放り込まれ、眩暈が起きるほどの体験をする。
斎藤先生の言葉の裏に伏流として流れている元ネタを探り当てることは快感である。そこにはフロイトから始まる精神分析の歴史に基づいている理論があり、さらにそのそれにまつわる、人文科学の教養が詰まっている。
私自身、元は斎藤先生の患者であって、斎藤先生からAC理論を教わり、斎藤チルドレンを自称する者だが、ただ「その薫陶を受けて回復しました」という自己回復物語で完結するのではなく、斎藤先生の無意識の臍を、自分の中で再活性化させ、巨大な自己愛を育て上げ、苦しんでいるクライアントへ、受け継いだ無意識の臍を、渡していきたいと思う。
田中淳一
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