斎藤学との対談〈竹口博雅〉(その1)

対談する人
竹口 博雅(たけぐち ひろまさ)

1962年生まれ。
父親は、「東大法学部を出た大蔵(財務)省の官僚と裁判官、そして、東大医学部を出た医者。その3者以外は、学歴社会の敗者だ」と思っていた(父親の最終学歴は旧制中学卒)。
その父親から、「大蔵(財務)省の官僚になれ。ただし、(大阪府にある)実家からは出ていくな」と、絶対に不可能なことを要求される。
6歳の頃から、強迫性障害の症状を自覚していたが、14歳の頃から、それが、日常生活に支障をきたすほど悪化する。
高校卒業後、3年間の浪人を経て大学に入るが、8年間かかっても卒業できず、除籍処分を受ける。
1998年、JACA(Japan Adult Children Association日本アダルト・チルドレン協会)のワークショップに参加し、斎藤先生から、東京に出て来るように勧められ貯金を始める。
2005年、父親が死んだ後、ゴミ屋敷と化していた実家を片づけ、2007年、東京に引っ越し、さいとうクリニックに通い始める。

斎藤 学(以下、S):これから、皆さんとお話しして、それをPIAS麻布コレクティヴのウェブサイトの「齊藤學ブログ」に載せていこうと思ってね。というのは、自分で書くのが面倒になっちゃったから。それに、皆さん、私に訊きたいことがおありだと思うんだけど、普段のミーティングではしっかり答えられないから、十分時間をかけて考えてみたいし。ただ、文字起こしは面倒だから、それは皆さんご自身にしていただこうかなと。話題は、人(ひと)一般のことからご自分の借金のことまで、何でもいいです。

竹口 博雅(以下、T):今日、伺おうと思っていたのは、JUST(NPO法人 日本トラウマ・サバイバーズ・ユニオン 理事長 斎藤学)のことなんですが。JUSTの今後のこと。先生亡き後のこと。

S:JUSTを私が終われば共に終わるものではなくしたい、というのが私の今の野望ですね。「希望」って言うと、皆さんに責任を負わせちゃうみたいだから、私の勝手な「野望」です。
やっぱり、人間って誰かと親密になる必要があるし、親密になると言っても、一緒に暮らすとか一緒に食べるとか、そういうのって限界があって、結構うまくいってないんですよ、皆さん。だから、どこかに集まる場所があって、そこで旧知の人たちが集まって、その人たちには共通のmemoryがあって、そのmemoryは私で、私ないしは私に関することのmemoryを持つ人たちが集まるっていうのがいいんじゃないの? そこに新しい人が来れば、その新しい人には別のものがmemoryになる。私は、話の中の人になっちゃうからね。realな、その場にいる人が新しい人にとってのmemoryになる。

T:すると、realな、固定した集まる場所が必要だということになりますね? 事務所が。

S:うん、その方がいいと思うよ。もしそうじゃなくても公民館の部屋を借りるなりして、実際に顔を合わせた方がいいと思う。

T:事務所を借りるのをやめればやっていけると思いますが。

S:そう? それなら事務所は要(い)らないかもしれない。

T:でも、それだと集まる人が減ってしまうと思うんですが。

S:ふらっと立ち寄るということができなくなるからね。

T:それに、今、先生が開いておられるようなミーティングもなくなってしまう。自助のミーティングだけになる。

S:インターネットの中の集まりは、いくらでもあるんだけど、いわゆるanonymous グループだけになっちゃうと思うんですよね。新型コロナ・ウイルス感染症が終息して、教会その他が使えるようになれば、そこでもやるんだろうけど。でも、realなグループがanonymous グループだけでは、撥ね出されちゃう人もいるんじゃないかな?

T:撥ね出される人?

S:anonymousが嫌な人。12ステップはやはり宗教だしね、基本的に。それから、リーダーはいないってことになっているけど、結局はそのリーダーの思うまま。その人にしてみれば会場の設営を始め、何から何までやっているんだから、自分の言うことを聞け、ということになっちゃうんだろう。何年にも渡って1人の人が場所を借りて、椅子を並べて、結局誰も来なかったというのが大半。仙台でAAグループをやっていた人も、そうだね。そういうのは、私とその人とが繋がっているから知っているわけだけど。女性で、そのAAグループも女性だけのグループだったんですよ。「AAはもういいんじゃないの?」と言ったら、ようやく閉めた。だから、もうそのグループはない。仙台には必要としている人が大勢いると思うんだけどね。

T:今、先生がミーティングで果たしておられる役割、戎飭(かいちょく)する役割を果たす人がいないと、そのミーティングには、今先生が開いておられるミーティングが持っている価値、人を惹きつける力がなくなってしまう。

S:私みたいな人がいない方が、却(かえ)っていいんじゃないかなと思う。
持ち回りで、ファシリテーターを決めた方が。現にそういうことは自然発生的に起こっているじゃない。それで消えちゃうかっていうと、そうでもなくて。ただ、そこで何か言ったりはしないけど、会場を整えたりする人は必要だよね。そっちの方が説得力があるって言うか、行動で示しているって言うか。そこに初めて来た人や、自分のことに夢中な人には見えないだろうけど、そういう人がいてこそこの場所があるんだなあってことを、だんだん皆が理解して、そういう役割を大事にするっていうふうになるんじゃないの?
インターネットだと、その辺が……もちろん、誰かが呼びかけないとできないんだけどね。何らかの形でのコミュニケーションは必要になるんだけど……新型コロナ・ウイルスが蔓延したこの3年間、SkypeだのZOOMだのいろいろやってきたけど、「違うなあ」ってつくづく思っていますよ。

来月(2023年5月)の「JUSTフォーラム」だって、Nさん(JUSTの会員)って人が、突然、あの話を持って来て、それを受けて、「いいんじゃないの?」って言ったのは私なんだけどね、そのNさん自身は、話が進むと何も手伝わないで、ここに来るのもやめちゃっているでしょ? そういう、火をつけて煽(あお)っては消えちゃう人っているわけよ。
だけど、私も元々は誰かに火をつけられて始めたのが、NABAになったり、子どもの虐待防止センターになったりね。どう考えても、私の発想からはそんなの出てこないと思うんだよ。

アルコール依存症のミーティングを世田谷区役所でやっていたら、そういうお母さんたちが来て、子どもを虐待しちゃっているって言うんだよ。大概は、大したことはやってないんだけど。そういうお母さんたちと出会ったことから、そういうお母さんたちのためのホットラインを作ろうかっていうのは、私の頭の中では結構連鎖していて。

ただ、それを弁護士会に行って児童福祉法の勉強をするところから始めるっていうのは私らしいと思うんだよね。それも場所があったからで、自分の勤め先の研究所に講堂があって、それを使ってやったわけよ。講堂って言っても、まあ100人入れるかどうかだけど。で、東京第二弁護士会っていうところの少年部会っていうのがあったんですよ。子どもの犯罪について話すとこね。本当は、左系の人が多いらしいんだけど、その時、そこから来たのは、どっちかって言うと「武張った」っていうかね、「悪いことは悪い」みたいなこと言う人で、子どもの有期刑についても、はっきりした意見を持っている人だったんですよ。「よほどの事情がない限り、裁判は受けさせるべきだ」ってね。その頃は、皆少年法で保護されていて、何が起こったかわからなかったんですよ、16歳未満の少年がやったことは。結局、2000年に少年法が改正されて14歳になったでしょ? その人は、木下淳博さんって言うんだけど。木下さんに、凄く、魅力があったっていうわけじゃないんだけど、お互いに必要を感じていたんだよね。私は法律的なことが訊きたかったし、彼は自分の依頼人で、心理療法や精神医療が必要な人は、どうしたらいいんだろうと思っていたらしくて。お互いに、凹凸を合わせるようなことをしていたから、会う機会が多くなってね。当時、横川和夫さんっていう共同通信の記者も、しょっちゅう出入りしていたんで、その3人でよく飲むようになった。

T:横川和夫さんは、埼玉県立浦和高校の教師が息子を殺した事件(1992年)を取材して、『仮面の家』(1993年刊)という本を書いた人ですね。

S:そうそう。その事件についても、私のところで随分話をした。3人が出会ったのは、ちょうどその事件の頃ですよ。その横川さんもだんだん偉くなって、斎藤茂男と同じようにノンフィクション作家になった。私はその後、クリニックを開院して翌年に「アダルト・チルドレンと家族」を出版した。
それが大体10年ぐらいの間に起こったこと。

ところで、他の話をしませんか?
(その2へ続く)