8月6日から考えていること その6

蒋介石と宋美齢

 

(a)蒋介石のクーデター

孫文は真新しい国家ソヴィエト連邦(1922~1991年)との合作に自身の導く党(国民党)の命運を賭けた。しかし1925年に彼が死ぬと、国民党は右傾化する。重慶を拠点とする国民党容共派(左派)が企画した上海のストライキに、蒋介石が軍事介入(1927年)したからだ。ここで旗幟を鮮明にした蒋介石はコミンテルンに率いられた共産党の殲滅を宣言して、上海のブルジョワや外国人を安堵させた。

こうした富裕層はロシアにおけるボルシェビキの残忍な振る舞い(貴族や地主階層の屠殺)についての風評に怖れをなし、その一部は伝統的な民衆互助組織、日本で言えばヤクザ/暴力団に庇護を求める機運が生じた。こうした地下勢力は阿片の所持・流通が国際的に禁止(万国阿片禁止令1912年ハーグ条約、1919年ヴェルサイユ会議にて各国批准)されるようになって以来、闇の流通を担うことで莫大な富と力を得るようになり、特にフランス租界を牛耳っていた吐月笙の勢力は絶大なものになった。

筆者の理解によれば青幇とは杜月笙(とげつしょう、トゥ・ユェンション)が率いることになってからの紅幇である。この男は以前に述べたフランス租界のボス「あばたの黄(ホワン)」らのグループに属していたが、やがてフランス政府そのものと取引するようになった。欲に目の眩んだフランス政府を介してヨーロッパ最新の鉄砲、拳銃、弾薬で武装するようになってからの青幇が侮りがたい反革命勢力になったのは確かなようだ。

本稿でたびたび引用されているスターリング・シーグレイブの『宗家王朝(上、下)』では、この青幇が蒋介石を操ったかのように書かれている。長い中国大陸覇権史の中でも最も激烈で派手な革命闘争を担った中華民国と中華人民共和国の片方のトップが1地方の阿片ボスに操られていたという筋書きは面白いが多分誤りであろう。

確かに上海ストライキに参加した数万の労働者の弾圧に土地の暴力団が手を貸したことはあり得るが、彼ら闇勢力には拝金主義、身勝手、無責任という非人類(サイコパス)の枷がはめられているから、地域ボス程度の役割しか持ち得ない。ただし蒋介石が青幇の恐怖を使って上海ないしその周辺の豪族から軍費を徴収したということなら、あり得る。

実際に蒋介石が頼ったのはドイツからの軍事顧問団である(阿羅健一『日中戦争はドイツが仕組んだ』小学館、2008)。国民党左派=共産党を敵に回したためにソ連に頼れるわけはなく、日本も満州事変以後、敵とせざるを得なくなっていた蒋介石にとって。敗戦国ドイツの軍人たちを取り込む機会を逃せるはずはなかった。

ヴェルサイユ会議(1919)で敗戦国とされ軍事力制限と限度を超えた賠償金支払いを背負わされたドイツではエリート軍人の身を置く余地が無かった。特に1919〜1939年にわたる第二次大戦までの戦間期の前半は軍人と軍事産業にとってワイマール憲法下の平和ドイツは共産党革命前夜の暗闇だった。その時代、カップ将軍のクーデター不発事件があったが、その首謀者の1人として退役を強いられたマックス・バウアー元大佐が1928年に軍事顧問職に就いた。数年後、中国で死んだバウアー氏の後を継いだ2代目の顧問団長ヘルマン・クリーベル元中佐はミュンヘン一揆の際にアドルフ・ヒットラーと共に逮捕されヒトラーと同じ懲役5年を科された人である。敗戦後のドイツ軍を辛うじて支えることに貢献したハンス・フォン・ゼークト元大将に至っては、ヒンデンブルグ大統領の勧告を受けて顧問団長の職に就いている。要するに、ドイツを代表する軍人たちが余生の一部を蒋介石軍の整備に努めた。結果として100師団(1師団は1万人)を超える軍団が編成され軍人教育機関、浙江省には空軍拠点、福建省には海軍の拠点が置かれた。

顧問団を構成する元ドイツ軍人たちの数も、ソヴィエト中華共和国を追い落とした第5次共産党攻囲作戦(1933)の頃には100名を超えていた。その際に顧問団を率いていたアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン元中将は1914年、つまり第1次世界大戦の勃発まで駐日ドイツ大使館の武官を務め大戦中はドイツ側だったトルコ駐屯軍司令官だったというエリートである。蒋介石はドイツへの留学を望みながら孫文の韓国で日本の軍事学校を卒業し、日本軍に身を置いた人であるのでファルケンハウゼン顧問団長との会話は日本語だったという。

ドイツ製の武器は一時母国では作れなくなり、技術者ごとソ連に流れたりしていたが、1930年ヒトラー台頭の頃にはドイツそのもので作られるようになり、アメリカが支援に乗り出す前の中華民国を支えたのはドイツ軍人とドイツ製の武器だった。

 

(b)待ちわびられていた真珠湾攻撃

一方、アメリカに足がかりを持つチャーリー宋の子供たちはアメリカからの支援を試みた。中でも傑出していたのは宋慶齢の弟で宋美齢の兄、宋子文である。彼はワシントンで最高級の政府御用達ホテル、ショーラムのスウィートルームに陣取り、アメリカ政府の要人たちを次々と招いては人脈を広げ、それぞれのルートを通して日本と戦っている中華民国への支援を仰いだ。ルーズベルト大統領との接触は勿論必須であり、このときにはハーバード大学の同窓という事実も有利に働いた。種々の工夫を凝らした贈り物(高価なものだと受け取れないから工夫が要る)に対するFDRの心のこもった宋子文への礼状が、今でもFDR記念図書館で見られるそうだ(伊藤純/伊藤真『宋姉妹』)。

当時のフランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)は、崩壊寸前だったイギリスを助けるため(と、本音を言えば回復しない不況からの脱出のため)に欧州戦線への参戦を熱望していた。しかし国民の多く(当時の世論調査では80%)は「病んだドイツ(ナチス・ドイツ)」のために「善きドイツ」も叩くことにはっきり反対していた。何よりも他国のためにアメリカンボーイズが沢山死ぬことになった第1次大戦から学ぼうとしていた。

そうしたときにナチス・ドイツがソ連に侵攻し、その直後日本政府は独伊枢軸側に加担することを表明した。こうなると、元来ソ連に友好的だったFDRと彼のホワイトハウスは日本に戦争の口火を切らせることで、アメリカの世論を考えられるという可能性に賭けるようになった。それ以降、日本人移民への迫害や日本人の入国禁止、石油や鉱物資源などの輸出削減から、輸出禁止へと日本の首を絞める政策を意図的に継続し、日本に「一定の覚悟」を強いるようになった。

それでも日本がアメリカと戦うことを避けていた当時、いかにFDRでも中華民国に兵を出して抗日戦争を支えることは出来なかった。そこで民間からの義勇軍という名目でパイロット付きの戦闘機集団(フライイング・タイガーズ)を中国に送り、日本軍の重慶(国民党の拠点)爆撃に対抗させようとした。結果から言うと、この試みは成功したとは言い難い。しかし、もうひとつの方法は見事に決まった。

その方法とは当時のホワイトハウスに集まっていた社会主義者たちを蒋介石夫婦の助言者として送り込むことだった。そのうちの1人オーウェン・ラティモアは、コーデル・ハル国務長官と日本政府との間で妥結しかけていた日米不戦案の最終稿を蒋介石に見せ、彼が大慌てになって混乱している様子をハルに伝え再考を促した。ハルもまた迷ってはいたので、ヘンリー・モーゲンソー財務長官に助言を求めたところ、モーゲンソーの部下、つまり財務省職員だったハリー・デクスター・ホワイト(戦後、ソ連の工作員であったことが露見して自殺)が予め用意していたかのような迅速さで改訂草案を提出してきた。これが現在の我々が知る「ハル・ノート」として日本側に電信されたものだという(須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』文芸春秋、2018)。

これをアメリカ政府からの最後通牒と受け取った日本側は真珠湾攻撃に踏み切った。その報告を聞いたFDRとウィンストン・チャーチルは起死回生の思いで祝杯を挙げたことだろう。

ラティモアやホワイトの成功は、ホワイトハウスと日本政府・軍司令部(統制派と呼ばれた軍人たちの一部)の双方にソ連工作員のネットワークが張られていたからだとわかったのは、戦争で多くの人々(日本人だけで350万人)が死んだ後だった。いや、もっと後、1991年にソ連が崩壊し、1995年にアメリカ政府がヴェノナ(VENONA)文書を公開してからのことだ。

これは戦時中のソ連工作員たちの交信記録だそうで、その暗号解読が研究書(英語版)として数冊に分かれて発刊されたのが2000年代の始め、その一部の日本語訳が出たのが2010年のことだそうで、その復刻版(扶桑社、2019)を私が手に入れたのは数ヶ月前のこと。つまり少なくとも私は、ここに書いているようなことを記憶したり分析したりする力も機会もあるはずがなかった。

FDRはディスレキシア(失読症)であったのではないかと思われるほど読書をしない人だったが、それにもかかわらず、わかりやすい言葉で、アメリカ人たちの魂を揺すぶる演説をするという特技を持っていた。当時はラジオの時代だった。「日本の騙し討ち」を非難し、こうなった上は戦う他ないとアメリカ市民を諭すFDRの美声は、あれほどにも反戦に傾いていたアメリカ人の心を一夜にして変えた。

 

(c)宋美齢の活躍

日米が太平洋で戦うようになると、蒋介石は戦費の負担を米国に求めるようになった。ここで大活躍したのが宋家の人々だが、日米開戦となってからは宋子文よりも蒋介石夫人・宋美齢がアメリカ人たちの心を鷲づかみにした。既に西安(シーアン)事件(1936)のとき、夫・蒋介石が軍閥・張学良に幽閉された際、自ら乗り込んで夫を取り返した宋美齢は世界的な好奇心の的になっていた。

1942年末に訪米したときの宋美齢は「物乞いと思われるのがいや(アメリカ人の友人への手紙)」ということで、病気(歯科?)の治療を渡米の口実にしていた。事実、渡米後すぐに長期入院したこともあって暫くは注目されなかった。

しかし翌年の2月にアメリカ議会で講演し、「自由と平等、そして正義のために敵・日本と戦っています、ご支援を」という講演をして議員たちのスタンディング・オベーションを受けた頃には、宋美齢は全米の人々の心を鷲づかみにしていた。映画「スター・ウォーズ」の冒頭で登場する「レイア姫」みたいなものだったのだろう。ジョージア仕込みの強い南部訛りの英語だったそうだが、華奢な体をチャイナドレスに包んだ、か弱そうな東洋の美人は、しかし弱い言葉を吐かなかった。むしろ「あなた方が真の民主主義者だというなら、私たちを助けないわけにはいかないでしょう」とアメリカ人を挑発したのである。このときはこの堂々とした態度が好意をもって受け取られた。

数年前に創刊されたばかりの写真週刊誌「ライフ」と週刊誌「タイム」は当時のアメリカ人にとっては行列してでも買って読みたいものだったが、片方は彼女の特集を組み、もう1方は彼女の顔を表紙にした。

既述のショーラム・ホテル(ワシントン)で宋美齢が開いたレセプション・パーティの出席者は前代未聞の数だったそうで、主賓は無論FDRであった。

こうしたブームは無論、アメリカの国庫から大量のドルと無数の武器貸与を引き出した。後に、アメリカは「蒋介石には38億ドル以上注ぎ込んだ。これ以上出せない」(FDRの死後を継いだハリー・トルーマン大統領)と言うようになった。アメリカに流れた膨大な財貨と武器が中国大陸の治世に結びつかず、蒋介石を取り巻く宋一族の縁故にだけ流れたという、中国腐敗の「噂」が時々ささやかれるようになった。

103歳まで生き、アメリカで死んだ宋美齢にとって、ここに紹介した1943年が絶頂期となった。その年の11月22日~26日、FDRはカイロに英国首相チャーチルと蒋介石を呼んで会議を開いた。この会議に呼ばれたこと自体蒋介石夫妻にとっては「勝利」であったろう。そこでは中米共同でのビルマ(日本統治下)への侵攻が具体的に検討された。

ここでの宋美齢の活躍はめざましかった。蒋介石が英語を操れなかったためにあらゆる会談に通訳として同席し、饒舌に語った。英米の首脳や随員たちは、どこまでが蒋介石自身の言葉であるのか分からず当惑したという話しが伝わっている。(続稿あり)